水彩人出品作のこと
第19回水彩人展には3枚の石垣島で描いた絵を出品した。石垣島の名蔵湾を畑の上から描いたものだ。この場所ほど美しい場所は見たことがない。時期はそれぞれに違うのだが、同じ場所で同じ気持ちで描いたものだ。美しいと感じているそのままに描いている。絵を描こうという訳でもない。美しい景色を写し取ろうという訳でもない。目が見ている世界を描けるものなのかを探ってみた。その結果3枚の違う絵になった。当たり前のことかもしれないが、違う絵になっていることに自分としては不思議がある。その時々で目は違うものを見ている。このことを考えるために、3作を出品した。石垣島で制作している連作ではこのほか3つの場所があるのだが、今回は名蔵湾にした。次は農道の絵にしたいと思う。そして田んぼの絵も続けるつもりだ。石垣島ほど自分を引き付ける場所はない。その惹きつけられる理由は、静かな気持ちになれるという事がある。風景が目が見ているものをそのまま描けばいいと語りかけてくれるのだ。
絵画制作をするというより、風景に向って「描画禅」を行っていると考えると一番近い。描画禅などというものがある訳ではなく、これも造語だ。私絵画を突き詰める一つのやり方だと考えている。自分というものを深めてゆくための制作法のようなものだ。ただひたすら意識を去り、目になって風景の前にいる。その目が見ている世界を意識の操作を出来るだけ排除して、画面に映してゆく。その時にはこざかしい絵画的知識を出来るだけ排除する。それは排除するという意識も持たないようにする。ただ静かな気持ちで、目になる。そうすると絵画する意識で見ている世界とは違う世界に向かう。その向かう先が何なのかはよくわからないのだが、しばらくはこうして制作してみようと考えている。石垣島に出会えたことは幸運と言わなければならない。石垣島という異空間の場が、そういう自分を呼び覚ましてくれたのだろう。
結果それを絵と言って良いのか。絵という訳には行かないのか。そういうことを知りたいと考えて、今回3枚並べて出品している。絵を前にすると、どうやって描いたかは思い出せない感じだ。想像することは出来るのだが、絵を描きだし終わるまで2時間ほどなのだが、絵を描く道具になったように、没頭してしまい頭を使わず描いている。その結果として、今まで習得したような、様々な要素が立現れてくるようだ。それが絵画なのかはよくわからないが、私絵画には近づいているような気はしている。人間は学んだもので出来ている。言葉もそうだし、考えること自体が学んだことによっている。その学んだものの奥に自分というものがあるのかどうか。もしあるとすれば学習したものにどのように上乗せ、色付けしているのかを知りたいと思っている。自分というものを知るために描いているのかもしれない。と言って、描かれたものは絵らしきものである。絵らしきものが、果たして何であるか。それを水彩人に並べることで確認したいと考えている。
目になって描くという事は、反応で描いているという事になる。反応によって出てくる絵が、私の絵と言えるのかどうかそれもわからない。分からないことであるが、今はそれに従ってみようと考えている。反応する目を養い育てることが私が生きるという事の一つの現れになる。良いものを見るという事。良い世界を知るという事。自分らしく日々を暮らすこと。そういう事が反応する自分というものを作る。自給農業をすることもそういうだろう。自分の生き方が自分を作っている。その出来た自分が絵を描くこと。その絵は自分の確認という事になる。確認してより自分を進める糧にする。自分が進むという事、生きるという事を明らめること。自分が生きるという事を全うするという事。そうしたことに絵を描くという事が繋がるのではないかと期待している。