憲法9条は日本の提案
日本国憲法が世界に誇れるものは「武力放棄と不断の努力」にある。憲法は大いに論議すべきものだ。ただし、日本が立憲主義国家だという大前提に立って、論議しなければ、議論も百害あって一利のないものになる。憲法を時の権力がその時々の都合で、無理な解釈変更をするのでは立憲主義の民主国家とは言えないだろう。憲法は国民が決めるものである。憲法に従って国の運営を行えと権力に命じているものだ。憲法は政権が解釈を広げることは出来ない。憲法の解釈は国民全体の民主的合意でなければならない。しかも、時の政権が自民党憲法草案という、全く質の違う革命憲法をもっている。その自分の理想に合わせて、無理やり憲法解釈を広げてしてしまうというのでは、立憲主義国家とは言えない。
自衛隊の解釈と9条の整合性はない。9条の武力放棄に関していえば、防衛的武力も放棄しているというのが、通常の日本語の理解の範囲である。しかし、解釈で防衛的武力は別物であると、読み方を広げた。次に出て来ているのが、防衛的武力の範囲の拡大である。専守防衛と言えども、相手がミサイル発射をしようとしているときに、それを攻撃するのは防衛であるという理解である。確かに文字的に言えば、その通りだろう。しかし、相手が日本に向けてミサイルを発射しようとしたという事実認定をするのは、防衛省であろう。相手を武力によって押しつぶしてしまいたいと考える組織が、自分の考えで判断をすることになる。微妙な判断となるだろう。時間をかけて検討する余裕もない緊急事態。こうして、日本が先制攻撃を行い、戦争に突入する可能性がある。どんな武力的覇権主義国でも、表面的には防衛的武力と口先では主張する。あの北朝鮮でもアメリカの核爆弾攻撃を防ぐ為に、原爆を開発しているとしている。
武力主義によるバランスの平和論には専守防衛は存在しない。日本国憲法の向かおうとする武力放棄による世界平和は、理想主義に基づくものだ。現実の国際情勢には適合しない、と私でも思う。崖っぷちに立った平和論である。同時に武力による平和論は綱渡りの平和だ。どちらの考え方も平和に暮らしてゆくには、危ういものなのだ。どれだけ武力で身を守ったところで、北朝鮮の潜水艦ミサイルが飛んでくるのを防ぐことは出来ない。武力で相手を抑え込んだとしても、テロの芽は必ず芽生える。自暴自棄になり、暴発する北朝鮮やイスラム国を防ぐ手段がない。理性があれば、攻撃をすれば自滅することは分かるだろう。しかし、イスラム国は自滅の道とテロ攻撃を進めている。原爆やミサイルを持っていないのが救いだ。中東諸国に北朝鮮がミサイルや原爆を販売しないとは限らない。北朝鮮が自暴自棄にならないように、自制を促す以外に日本に道はない。日本が武力を少々増強したところで、北朝鮮の抑止力にはならない。
日本がやるべきことは、日本国憲法に基づく平和主義を世界にアピールしてゆくことだ。日本が武力を放棄した国であり、相手国にとって軍事的な脅威にならないことを示してゆくことだ。独善と言われようとも、武力主義に加担しないことだ。国際紛争の種は、平和的手段で解決することを、世界に訴えることだ。周辺にある領土問題は外交的な話し合いで解決する。2国間で話し合いができないのであれば、日本にとって不利益が予想されるとしても、国際司法裁判所に提訴し解決を計る。天皇に関しては象徴ではなく元首と考えているという事を表明している。天皇に関してはあくまで象徴としての天皇を尊重する。元首と象徴のどこが違うのかという問題があるが、大差ないなら改憲の必要がない。それでも憲法を変えたいとする以上大きな違いがあると自民党では考えているのだろう。象徴天皇の問題と武力放棄は同じ問題だ。元首という言葉には、象徴という言葉よりも解釈の幅がある。元首を超法規的な権力という意味にも解釈できると意図しているのだろう。
以下引用。
マッカーサーはやはり幣原による提案だと書いていた。今年になって、堀尾輝久東大名誉教授が見つけた新史料である。
<提案に驚きましたが、心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました>
幣原側にも史料がある。五一年に亡くなる十日ほど前に秘書官だった元岐阜県知事平野三郎に東京・世田谷の自宅で語った文書である。
<風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった>
<天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた>
戦争放棄は日本の提案だった。
国民への信託は憲法一二条とも響き合う。自由と権利のために国民に「不断の努力」を求める条文である。憲法は権力を縛る鎖であるから、憲法を尊重し、擁護する義務に国民は含まれない。だが、信託によって、国民は道徳的に、そして道義的に「不断の努力」が求められる。