自分の絵を語る意味
水彩人では自分の絵をそれぞれに語るという勉強会を始めた。自分の絵について言葉することには大切だと思う。自己確認をすることが出来ればと思う。田んぼを描いて一つの点が稲に見える必要があるのかどうか。色であり、点であるという事には、意味があるのだろうか。稲を稲の意味を伴って描くということが、絵を描くという事に必要なのかどうか。純粋な造形の中では意味を伴うという事が邪魔することがある。人体という形を通して、造形をするという事がある。モナリザのように人間というものの意味性を探求している作品もある。そしてマチスやピカソのようにそのフォルムや色彩を重視し、人体という意味は後退してゆく絵画。さらに、意味を完全に捨てて、そもそもは人体を出発点にしたかもしれないが、形の動きとか、色彩のバランスとかいうものに、転嫁されてしまい、人体という図像としての意味を失うという事もある。私の頭の中は、行ったり来たりして煮え切らない。
時代共に絵画が変化してきた。宗教や権力のしもべとしての絵画の時代があった。そして、人文主義としてのルネッサンス絵画の時代。さらに自己表現の時代の近代絵画。そして商業絵画の時代が現代という事になるのだろう。商業絵画の時代は資本主義が存続している間は存在するだろう。芸術としての絵画とは言いにくい時代という事になる。次の時代は私絵画の時代と考えている。それぞれの人間の生き方としての絵画。それはもう個人的なことだから、別段時代というほどのものではない。絵画が芸術としての機能を失い、つまり表現としての機能を失い、個人的な制作に意味を見せる時代。私絵画においては、図像の意味はどうなるのだろう。自己確認が主たる目的になるから、顔に見える図を描いても顔という意識ではないかもしれない。顔には到底見えないものを描いて居ていも、意識としては顔なのかもしれない。夢の中の図像のようなもので、意味は常にあってなきがごときものではないか。
私が里山風景らしきものを描いているのは、里山という夢なのかもしれない。その場に自分が経ちたいというような、空気である。空気を描いているのだから、具体的な個々の意味は現れたり消えたりしてゆく。雲が山に成ったり、山が海に変わったり、それは自分の中ではごく自然な変化である。そして黄色の点が、花であったり、犬であったり、ただの点であったりする。それを心象風景という風に呼ぶ場合もある。しかし、心象風景と読んでしまうと違和感がある。それは夢で思い描くような美的な風景ではないからである。自分が暮らす生々しい現実感のある世界観を描いている。憧れたり美化したりする、心地よい風景を描こうとしている訳ではない。田んぼを描くという事は、田んぼの中で汗を流している自分を描いている。その自分の見ている泥の色や感触、飛び回るブヨ、足で血を吸っているヒル、田んぼを泳ぐヤマカガシ。そうしたすべてを含んで田んぼの形成する世界観がある。
その時に田圃がどうなるかだけが問題になる。白い枠になるのか。緑の斑点になるのか。結局のところ、その中にある渦巻いているベクトルをとらえようとしている。そのベクトルは現実の風景の中に存在する。だから、ただただその動きを写し取ろうとする。その一時的にできた図像はあくまで目をよぎった図である。数多くの矛盾を含んでいる。その矛盾を整理して、自分のベクトルに調和させてゆくことが、次の制作という事になる。その画面にはその画面の調和というものがある。それはもう見ていた世界とは、別物である。自分の中の世界である。しかし、現実の田んぼを見ながら、自分の世界の中の動きをとらえようとする。これは数学の問題を解いている感覚に近い。回答を求め、様々なアプローチをする。ところが、そこにあるのは回答ではなく、より大きな問題の在りかにたどり着くことになる。問題点が明確になることがあれば、それが絵が出来たという事だと思っている。だから、重要なことは自分の絵を自分で語ってみること。矛盾し、結論のないことで試行錯誤しているのかとわかる。