自給農法
京都の方で自給農法という事を提唱されているグループがあるらしい。農業ではなく農法と言われている。糸川さんという方が中心のようだ。それが今は発展して畑の小学校という活動を展開されているようだ。相当に高度な自給技術があるので注目してきた。農業は自給であろうが専業であろうが、技術次第だ。技術が見につかなければ、どういう素晴らしい構想であろうと成り立たない。農の会のというか、私の地場・旬・自給の考え方に近いものがあると以前から興味を持って眺めてきた。違うのは農法という形で、自給の技術の方に関心が強い所だろうか。仲間に技術普及に長けた人がいるのかもしれない。自給技術全体に興味があるのは同じなのだが、技術に特化するのは避けたいという気持ちがある。農業技術を磨くという事は、実は生き方の反映だから、他人がとやかくは言いたくはない。技術が習得できずに、あるいは実践が不足して、出来ない人はいくらでもいる。しかし、出来ないから駄目な人間ではなく、農業に向いてないだけだと思っている。
自給は農業技術が身につかない人が無理にやらなければならないようなものではない。好きでやらずと居られない人だけがやってみればいいと思っている。場の提供までは誰かがしなければならない。農地というものが、厄介なものだからだ。それは農地というだけでなく、土地というものへのこだわりは極めて強いからだ。これほど放棄されているのに、自由に利用ができないのが現状である。本来であれば、農協とか、行政とかがやるべきことなのだが。それだけではうまく進まないから、農の会のようなNPO法人がかかわる必要があると考えている。国は税制を変えて蜂起の内には税金が重くかかるようにしようとしている。ところが、実際にはほとんど進まない。現場に協力してゆく姿勢がないからではないか。農地を既得権と考えている人たちがいる。農地は日本という水土からお預かりしたものと考えなければだめだ。
話は戻り、自給農業の技術だが、それぞれという事だと思っている。基本的な考え方はある。農の会で言えば、有機農業基準は最低限の約束である。それを守らない人は困る。有機農業基準が正しいかどうかは別にして、一定の枠は示している。その枠を外さなければ後は、その人に合った方法を探すべきことだ。それを探せない人が多いいという事である。技術は発見であって、自分で探す以外にないと考えている。糸川さんのやり方も参考になる一つに過ぎない。糸川さんにとって最善のものであり、究極まで突き詰めたものであるかもしれないが、それは糸川さんに限ってのことだ。先日苗の色を見て、色の見方が一人一人違う事に気づいた。だから、色味スケールというものがあるのだろう。何番の緑なら、追肥が必要というような使い方をする。私にはこうした一方向からの判断は、百害あって一理もない考え方だと思う。
自給農業技術は、綜合的なものだ。在る側面から切り取って分かりやすくしてしまえば、その人が技術を完成することは出来ない。私であれば、草を取るのが面倒である。土寄せをするのが面倒である。面倒をしないで、生産が半分であってもよい場合もある。またその方が良いものが取れることもある。自然農業と自然農法は違う。有機農業と有機農法とは違う。特に自給という事であれば、農業となるとどこかちぐはぐである。日本では結局のところ、政府が食糧自給や環境保全のために、お金を使って保護しない限り、農業は消えてゆくことだろう。そのことの判断は出来るだけ早くした方が良い。遅れれば遅れるだけ農業をする人が居なくなる。農業を残すのかどうか、これだけは国民の総意として決める時期に来ている。