絵を描くこと

   

好きなことは絵を描くことだ。生きているというのはこういう感じかと思える時間をもてる。頭がフル回転なのに、何も考えていないような爽快な感じ。これ以上のことは思いつかない。子供の頃から求めてきた思いのようだ。幼稚園で好きに絵を描きなさいと言われて、何を描いたらいいのかまったく見当もつかなかった。何とか思いついたのは舟である。舟という形の書き順は教わり知っていたからだ。本当の船を描くことは不可能だが、線で舟を横から見た形を手順として教わり書けた。仕方がないので線を引いてここから海という事にした。海だから青く塗った。それなら上半分は空というので空色に塗った。空なら太陽がある。丸く赤で塗った。周辺を空色で塗っている内に、太陽の赤丸にはみ出てしまった。何故なのか、これは失敗であり恥ずかしくて許せなかった。そうだ夜にしようと考えた。舟より上はすべて黒で塗りつぶした。今度は舟に黒がはみ出た。それなら舟が攻撃されている絵にしようと、めちゃくちゃに火柱を上げた。それは没頭した時間だった。絵を人に見られるのは極度に嫌だった。自分の心のうちが見られるからだ。幼稚園の先生がその絵を見て、精神的に問題がある子供という事になり、精神科に連れてゆかれることになった。他にも兆候があったのだろう。

好きなことを探せと言われて育った。好きなことを見つけるのが若い時代の仕事だと、繰り返し父は言っていた。私は今でも死んだ父と相談しながら生きている。好きなことが見つけられれば、後は何とかなると常々言っていた。勉強は嫌いだった。何のためにやるのかが分からなかった。そこで没頭できる絵を描き始めた。小学校のころから絵に熱中していた。それでも何時も何を描いたらいいのかという事には、苦しんでいた。描き始めてしまえば、そういう事は忘れて描き続ける。絵になりそうなものが分からなかった。絵というものが何をすべきものなのかが分からなかった。それで絵らしきものをまねるていたのだが、さして面白くもなかった。描いているのはいいのだが、何のために絵を描くのかはわからなかった。絵を描くのは一体何をやっているのか。しかし、始めてしまえば没頭してしまい、一切を頭が違ってしまうので、悩むことはない。だから一応終わりだなと思っても何かが出来たという事ではない。その没頭の中立ち現れたものを、不思議だなあ。時にはいいなあ。と他人事のように思う。

現在は絵を描くという事を自分がコントロールすることを避けている。避けることの方が絵を描く喜びと直に繋がっているようだからだ。何故、太陽の赤丸に青がはみ出たらいけないのか。これは太陽というものに空ははみ出ていないと理解しているからだ。絵では青が赤にはみ出ようがそれは構わない。太陽とか、空とかいう観念はいらない。つまり、そういう頭が考えたことを捨てたい。絵の上では、物を理解するという観念を捨てたい。その方が絵を描く喜びに繋がっている。ところがそういう没頭に入れば入るほど、絵はリアルな描写になる。見える世界を描写をしている。それはそれでいいのだが、今は何故そうなるのかという事を考えている。視覚というものは、観念を超えてある。見て意味理解するという事を捨てて、見ていると。意味とは別にそこにある色や線の動きで出来た空間が見える。

あれが田んぼだとかいうのではなく、あの緑があそこの赤に反応しているとみている。そうしてみていると海の色とか、空の色という意味ではなく。色と線で出来たある構造が見える。分かるというような理解しようという意思を捨てている。その没頭した末に出てくるものが、もしかしたら自分というものの核ではないか。意味を確かめるというより、自分というものが絞り出されているのかどうかを確かめる。今のところ全く分からない。分かるところまで行きたいと思うが、行き方もわからない。日暮れて途遠しとは良く言ったものだ。絵で描くべきものが分からないと思った。幼稚園の時と少しも変わりなく、絵を描くことが好きだ。好きなことをして生きれるという幸せの実感がある。その実感までは来れたのだなというありがたさがある。好きなことを見つけられたという事は確かなようだ。好きなことをしていて、生きることに困ったことはなくここまで来れた。幸せな方だろう。今回は少しなぜ絵を描いて居るのかが書けた様な気がする。

 

 - 水彩画