三線の稽古を始めて2年

   

三線の稽古を続けている。全く飽きることがない。ほぼ毎日1時間の稽古をしている。65の手習いで、さしたる進歩はないが、全く駄目という事でもない。覚えるという能力は低い。これは老化というだけでもないかもしれない。特にリズム感はひどい状態である。覚えようという努力自体ができない。好きなことはいくらでもやりたいのだが、努力は出来ない。それでも子供の頃はラジオから流れてくる歌をいつの間にか覚えてしまい、小皿敲いてチャンチキおけさ、などと訳も分からず歌って怒られたものだ。今は歌えると思って声を出すと、歌にならない。そういう情けない現実の中で三線を始めた。ただ三線の音色と、八重山の唄に惹かれる。年齢とともに、こういう音色が分かってきた。ぺんぺんと音を出すだけで気持ちが和む。それでも「ちんさぐぬ花」はいつの間にか見ないでも弾けて唄えるようになった。一節しかメロディーのない、もっとも簡単な曲なので覚えられたのだが、2年間ただ繰り返し弾いている内に身に着いた。

2年かかったが、この調子なら、1年に1曲ぐらいはいつの間にか歌えるようになるかもしれない。繰り返している練習は、毎日好きな曲10曲ぐらいを弾いてただ唄うだけである。上手くとか、覚えようとか言う事ではない。まず八重山民謡のCDを聞いて真似をする。言葉の意味は分からないし、リズムも旋律も、適当にまねる。100回ぐらいまねているとなんとなく唄らしくなってくる。今一番唄いたい唄が、仲良田節である。西表の仲良田川のほとりにあった集落の唄である。今は集落も田んぼもない。道路もない。そばまで船で行けるというくらいの密林の秘境である。イリオモテヤマネコの発見地に近い。そこに100年前にはあった小さな集落の田んぼの収穫の祝い歌である。刈った稲を奉納するシクワァーヨイ(初穂刈り)の日より仲良田節が歌える。という大切な暮らしの唄である。

収穫後一ヵ月だけ唄っていいとされた曲だそうだ。その美しい旋律が音楽的に洗練されている。深い世界観に驚かされる。素朴とか、情緒があるというようなものではなく、音楽として崇高なものに出来上がっている。世界でも最高水準の唄に違いない。小さな50軒ほどの集落の暮らし中で、これほどの洗練された音楽が出来上がった、八重山文化というものの不思議を思う。音楽学校がある訳でもなく、専門の音楽家がいた訳でもない。しかし仲良田集落には仲良田集落の何千年の歴史と文化がある。暮らしが唄文化につながり、育まれてゆく。収穫後の1か月だけと思いを温め、大切に唄い継がれてきた豊かさ。八重山の唄文化と瑞穂の国のこころの奥深さを思う。いつか仲良田川のほとりに立ち、初穂をお供えして、この歌を唄いたいと思っている。日本人のご先祖様に繋がりたい思いである。

三線はやさしい、優しい楽器ではあるが、唄との兼ね合いはなかなか深い。唄の旋律と三線の旋律が違うのだ。この違いが魅力だという事だが、どうしても三線の音に唄の旋律がつられてしまう。唄が身について居ないのだから、当然のことかもしれない。また、唄い出しが三線の弾き出しとづれる。早いところもあれば、遅いところもある。これもまた難しさだ。三線の楽譜工工四ーが難しいと思っていたが、そうではなく工工四ーに書き起こせない微妙なところが難しい。石垣の先生は楽譜を見ないで覚えないとだめだと言われていたが、到底楽譜を見ないなど出来るものではない。だから大人はダメだとも言われた。むしろ正確な表現として、五線譜に起こしてあれば、まだ可能かもしれない。とつい泣き言が出る。それでもやめる気は全くない。下手なままでもいいから、毎日続けたいと思う。この三線も、琉球王朝では庶民は触ることすら出来なかった。しかし、八重山は違う。沖縄と言っても多様なのだ。庶民が生んだ八重山民謡こそ日本人の心を伝えるている。

 

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