地方の衰退の現実
地方社会は老齢化に見舞われている。地方自治体の多くは人口増加を想定し、サービスの充実、拡大で来てしまった。ところが現実は自治体の予測に反して、急速に人口減少期、老齢化に入った。10年前神奈川県がごみ処理の将来計画を出した時、西湘地域も相変らずの人口増加予測で、ごみが増加を続けると予測し大きな焼却炉が想定されていた。これに対して意見書も出し、人口減少とごみの減少が見込まれていることを指摘した。人口増加によるごみ増加の計画案を変えずに、様々な政策によって人口増加をはかる方針だという回答が添えられていた。10年たって、ごみ処理計画案がいかに荒唐無稽であったかがわかっただろう。しかし、実は相変らずどの分野において、相変らずの人口増加時代の発想が継続されている。国内が縮小であるなら、外国人労働者を使っても、海外競争力を高めるという事になっている。資本主義というものの、拡大再生産、資本は利潤を求めるという、変え難い方向なのだろう。
行政が過去の成功事例に従おうとして、発想の転換が出来ず行き詰まるのはある意味当然の帰結である。地域社会でも同じことが起きている。自治会というものは、大多数が前例主義だと思う。私が自治会の役員をやった時には「自治会は良くしてもらったら困る。次にやる人まで良くやらなければならなくなる。」こういわれてなるほどと思った。この地域では伝統として昔からこうだったのだという事ほど説得力のあることはない。ところが、状況が変わってきている。昔通りやりたくてもできない現実がある。子供がいなくなれば、子供神輿は担げない。それでも何とか昔に近づけようという事で、トラックに載せて地域を回る。子供が減少したからと言って子供神輿を止めてしまう訳にはいかない。止めるにはまだまだ前例主義というハードルがある。地域の運動会でも、川掃除でも、何とかやってはいるが、川に降りてはお年寄りが多いい現実から危ないという川掃除になっている。
地域社会も、地方行政も、大きな発想の転換をしない限り、困難が待っている。時間がたてば状況が良くなるという、経済成長期の発想を捨てなければならない。老齢化、人口減少期においては、年々状況は悪くなるという中でどうするかを考えなくてはならない。しかし、頑張って人口を増やすなどという、無理な想定を立てがちである。成人式では人口増加のために頑張れなどという市長まで現れる。人口の減少は人類の防衛本能の働きだ。このままの人口増加では食糧生産が追い付かない。日本がいち早く人口減少期に入ったのは、幸運と言えるだろう。中国、インドやアフリカが人口減少に入らない限り、先進国のせっかくの人口減少も効果が少ない。日本が今目指すのは、人口減少期の社会の仕組みの作り直しである。現実的には消防団に入る若者がいなくなる地域で、どのように防災を進めるかである。行政が取って代わることのできる能力は期待できない。
行政だよりにならない、自給生活の復活である。江戸時代であれば自分のことは自分でやるのが基本だった。お上が個人の面倒など見てくれなかった。それぞれが自立して暮らせるのであれば、過疎地域の方が暮らしやすいはずだ。家もあれば農地もある。行政の助けがなくとも、暮らしてゆく。見方を変えれば、これからの時代は自給の暮らしは良くなるはずだ。子供の頃はごみなどすべて自分で処理するものであった。山北で暮らしていた時は、ごみ回収などなかったが、全く問題なかった。今だってそういう地域はいくらでもあるだろう。今後さらに病院でも、教育でも行政に期待できなくなる地域が増加してゆく。行政が何もしてくれないつもりで考えれば、どうにか新しい暮らしが見えてくる。弱者はどうするのかという事になる。私も年を取り遠からず弱者になる。要するにその時の覚悟だと思っている。