テレビ電波停止に言及
高市総務大臣が放送法を根拠に電波停止の可能性を言及した。放送法を全く誤解している。放送法の根本精神は放送の自由と独立を保障しているものである。その自由の確保のためには、自由の範囲が必要だという法律である。政府の判断によって、放送内容を制限するようなものではない。放送を制限せざる得ない場合は、政府や政党や国会から完全に独立した第三者機関が判断する場合である。政府がそもそも放送の制限に関して発言すること自体が、影響を与えかねない重大問題なのだ。安倍政権の恣意的判断が放送内容に、加わってはならないものである。また、自民党のように放送を制限するようなことをちらつかせるのもあってはならない。まして、公共放送たるNHKの会長に総理大臣の意図を汲んだ人物を送り込むなどという事は、許されがたいことである。
総務大臣の国会答弁では、「放送内容が放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した。行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない。」これを受けて菅官房長官は9日の記者会見で、「従来通りの総務省の見解で、当たり前のことを法律に基づいて答弁したに過ぎない。(政府の恣意(しい)的な電波停止は)あり得ない。放送法に基づいて放送事業者が自律的に放送するのが原則だ」
このような発言の繰り返しが、放送の自由への圧力にすでになっている。安倍政権の一連の報道圧力の氷山の一角が水面に表れた姿だ。政府が放送法を持ち出し、偏っていたら電波停止という脅しをかけている実際である。官房長官の記者会見発言もさらなる脅しになっている。こうして遠巻きに制限を加える結果となる。確かに、具体的な制限を述べているわけではないが、これを受けて自主規制を行うことになりかねない。最近のテレビが、日本はこんなに美しい、こんなに思いやりのある、こんなにも能力のある国だという放送が目立つのは、その結果だと考えておかなければならない。放送が政府に対する批判精神を失えば、民主主義は育たなくなる。それは独裁国家の常である。最近の放送は政府の意図を忖度しているとしか思えない傾向にある。コマーシャル制限によって圧力をかけろというような自民党内発言がある。
日本礼賛番組は気持ちが悪い。自慢げである。こういうことは自らがあげつらう事ではない。謙譲の気持ちこそ日本人の徳性ではなかったのか。これほど格差貧困が目立ってきているのに、その現実を取り上げる報道が少なすぎる。だからこのブログにも、私の周りにはそれほど貧困な家庭はないなどというコメントが書かれたこともあった。日本の苦しい現状を直視することは愉快ではないだろう。愉快ではないが、今一番必要なことだ。世界経済が競争主義の膿を吹き出し始めている。人口増加、食糧危機、環境破壊、宗教的対立。これからの世界はより深刻な困難に直面するはずだ。江戸時代に培った循環型社会の優れた結果が日本を作り出している。これこそ、世界の希望である。おもいやりも、おもてなしも、もったいないも、田んぼから産まれた日本人の感性である。能力主義社会の行き詰まりを予測しなければならない。放送は頑張らなくてはならない。