野々村元県議の裁判
野々村元県議の行動を見ていると、まさかと思うような人が県会議員だったことがわかる。まさかの人だからすべてが演技という事もありうる。同時にそうみんなで演出しているきらいもある。このことから考えるべきことは、県議会の廃止である。県議会はそうとうに無駄なものだ。実質のない無駄なものだから、こうもおかしな人が議員になる。国会と市町村議会があれば十分である。県議会は市町村議員の中から兼任する人を出せば、十分に用が足りる。県議会が何をやっているのかは全く見えてこない。見えてこないくらいだから、政務調査費がでたらめに使われていたとしても、気づきにくい。野々村元県議のでたらめは氷山の一角だという事が、あの号泣会見の後散々に言われた。しかし見事に、一人のこととして終わった。ホット胸をなで下ろしている県議が全国にいることだろう。もちろん国会議員でも、市町村議員でも怪しい人はいるだろうが、県議は特にでたらめの温床になる。なぜ、報道はさっさと切り上げたのか。
今回の裁判で県議会の不透明性を蒸し返す報道は一つもない。裁判中の事件にコメントする訳にはいかないなどと解説してくれる間抜けな人までいて、報道の頓珍漢はひどいものだ。政治家の犯罪については、裁判中であろうがなかろうが、とことん追求しなければならない。それは有権者の代表としての存在だからである。普通の犯罪者とは違うのだ。報道がレベル低下しているならまだいいが、圧力を感じて沈静化を図っているとしている節が強い。そう思った方が良いのかもしれない最近の空気である。静かな独裁というものが、報道の行う配慮から始まる。広告主への配慮。権力への配慮。野々村議員個人の問題で終わらせようという意図が潜んでいる。黙っているという事はそういうことと考えなければならない。報道はこの機会を利用して、地方議会の実情を明らかにすべきだ。何をやっているのかを分かりやすく説明すべきだ。八重山毎日新聞の地方議会報告は徹底している。しかし、県議会については今一つである。何しろ小田原地域での県の方針は「未病を治す」だそうだ。私には訳が分からない。
解決策は実に簡単で、はっきりしている。議員に日誌をつけさせて、それをインターネットで公表することだ。有権者は給与を出しているのだから、それを要求する権利がある。温泉に行って地域活性化の検討をしたというのであれば、そう書けばいい。日誌に書かれた活動を見て、有権者は投票する。小田原でもある市会議員は日誌を公開している。長く市会議員をしている人だ。ときどき読む。相変わらずだななどと思っているが、公開しない人よりよほどましだと思っている。議員が姿の見えにくい得体のしれない存在になってはならない。議員の公開日誌は、各議会運営委員会が管理をして、その責任で共通様式で公表すればいい。自分の議員としての仕事を公開したくない人は、議員にならなければいいのだ。議員は公務員であり、有権者の代表として、代理として議員になっているのだから、その程度のことは当然行うべきだ。それをしたくないという議員たちは、今いる立場の曖昧さの中でぬくぬくしていたいと思われても仕方がない。
インターネットが出来て、民主主義は本物になる事が可能になった。原点である直接民主主義というものに近づく可能性がある。ところが、そうした手段が出来た故に、独裁的傾向を静かに権力者は進行させている。情報の山の中に権力者は姿を隠している。そして、木偶人形だけが表舞台で演技をさせられている。議員の日誌など誰も読みたくはないだろう。しかし、チェック機能としては優れていると思う。ごまかしや嘘が付きにくくなる。甘利氏の献金疑惑でも、もし甘利氏の日誌があればすぐに調査ができ、疑惑が晴れることにも犯罪になることも、かなり見えてくる。要するにドライブレコーダーである。事故が起きた時に役立つのだ。