石垣の田んぼ
今日も石垣は暑そうだ。11月半ばで小田原の8月の日差しである。連日30度は超えている。石垣島と西表島の田んぼは相当に古い時代に始まったものらしい。八重山の稲作について研究されている、安渓遊地編著による。「西表島の農耕文化――海上の道の発見」という本がある。まだ読んでいないのだが、この本には八重山には縄文期に海上の道を通って稲作が伝わったということが書かれているという。古いイネの品種を調べて、南方のイネの遺伝子を確認している。その後西表には蓬莱種という台湾のお米の流入があった。西表島はもう台湾が目と鼻の先である。台湾からの遺留民もたくさんいる。この2つの島は、稲作の適地ということで、稲作のために他の島から出作りのようなことが行われていたらしい。島津藩による、強制移住ということもある。現在の稲作は、一度失われて、又本土からの技術として逆輸入されたものではないかと思う。そこには島津藩の支配なども影響している気がする。いずれにしても、石垣や西表島は田んぼには適地だった。
石垣島でも西表島でも田んぼを作るために、他の島から移住させられたり、また出作りをしていたということである。この二つの島が田んぼができる、つまり暮らしやすい島であったのだろう。平地もあるし、山もある。それなりの川が普通に流れている。これは宮古島ではなかったことだ。マラリヤやそのほかの風土病には悩まされたようだ。田んぼに入るということはそういうリスクを冒すということでもあったのだろう。これだけ暖かいのだから、どれほど台風が通る場所であろうとも、大きな台風が来るところであろうとも、この島はよい島であったに違いない。「テンペスト」の池上永一さんの書いた「王様は島にひとり」という雑誌連載をまとめたらしい本を飛行機の中で読んだ。文というものひねくる人のようだ。言葉をもてあそぶ中で、石垣の置かれてきた位置ということを実感させられた。そのことは本土に生きる人間として、心にとめておかなくてはならないことのようだ。
石垣では仲新城淳さんという方が耕作をされている。60年も自然農法の稲作を続けられている方である。南の地方では病虫害や、雑草の駆除に苦労するといわれる中、独特の農法を作り上げている。83ぐらいになられているはずなのだが、とてもそんなお年には見えなかった。お尋ねした時は朝の9時くらいだったのだが、5時から作業をされていたといわれた。大きなトラックたーで代掻きをされているところだった。トラックたーを畔に乗り上げてお話を伺うことができた。実に論理的な方で、明確に南の地域の自然農法の稲作を整理されていた。虫の問題、雑草のこと、田植え時期のこと、土壌の問題。品種の問題。すべてに科学的な思考をされていた。そうした方だからこそ亜熱帯における無農薬の稲作を完成できたのだろう。神がかり的なところはみじんもなかった。学問をされてきた方の風格があった。
特に興味深かったことは、田植え時期のずらし方である。石垣ではほぼどの時期でも田植可能らしい、12月初めから2か月は生育が止まるということだ。それでも今年は12月1日に田植え予定ということで、代掻きをされていたから、どんな時期でも可能といえばいえるのだろう。80を超えて、10ヘクタールの田んぼをやられると、しかも、息子さんとは別のものとしてやっていることのことだ。息子さんは農協に出しているそうだった。そうした方は、周辺で20名おられるそうだ。石垣にはまだほかの地域にも田んぼは残っている。水はダムができてから全く困らないそうだ。一番こっているのは、カモや雀の野鳥だそうだ。ひどく増えてしまって、今年は全滅した田んぼもあったという。自分のように一人だけ違った時期に実ることになると、野鳥の被害はひどいことになるといわれていた。2季作、3季作が行われていた。それが同じ田んぼで500年は作られ続けたのだ。台風の何度も通る場所だから、全滅覚悟で作るということもあるのだろう。