真南風(まはえ)と魚住けいさん
石垣島に来ている。一度は来てみたいと思っていた。魚住けいという人に思いをはせる。お会いしたこともなかった人である。ここ何年かはこの人のやろうとしたことを考えては、農の会の行き先を考えてきた。考えて何かが出来たわけではないが、この人の残した言葉は深い。「まだ見ぬこれから出会う人たちと連帯してゆく。」というような言葉がある。「私たちが困っているときに助け合う、隣の人につい手を差し伸べてしまうというような、人間としての痛みを分かち合う、そして喜びも分かち合う、そういう普遍的な人間の営みの一つであるというふうに思う」こうした生き方を貫いて亡くなられた方である。石垣島に2年暮らして、真南風というものを残した。「日本列島の山地・海辺の人々も地形・風土に調和した暮らしぶりをもっておりました。強権をもって追われ、潰えたといえ、千年の列島生命譜の末裔こそ、私たちにほかならず、沖縄の島々と向き合おうとすれば、遠い視線をもって今更にここを誇りと致さねばなりません。」
「島は小さくとも美において大いなる島」(柳宋悦氏)と讃えられた、島の華であり、宝である工芸。数々の手の技、暮らしの中から生まれた堂々たる美「手ぬ花(ティヌパナ)」。島の工芸・民芸の底に鎮もっているのは民族の息づかいであり、魂の語り部の声そのものなのです。 観光化のために万一にもその精(シイ)が衰えてゆくことがあってはならないことです。この分野におきましても私どもにできることを問いつつ、非力もかえりみず手も足も働かそうと思っております。
社会破壊・環境破壊としての復帰を経験した沖縄が、この眼力をもって「沖縄発」としてアジアや世界に送るものが、たとえば循環する交易であり、貧しく虐げられた国々の民衆に対する共感・共生の援助のプログラムであってほしいと願いは募ります。日本に住む私たちがそのパートナーとしての自己形成してゆくことは尚大切なことでしょう。沖縄が世界に向けて発信する「島の叡知」の中にこそ、さし迫る21世紀を生きる人々に継承すべき、普遍の風土の象(かたち)が埋めこまれているのではないでしょうか。
このように問いかけている。魚住さんの思想をかみしめるとき、さて自分の田んぼはどうだろうかと思う。こうして小田原の自給の活動を考えてきた。現状で仕方がないというのでなく、未来の人に託することのできる価値観を持って活動を見直してゆかなくてはならない。と思うと力の不足を感じざる得ないのだが。農の日々の暮らしは平凡で、なんということはない繰り返しである。しかし、この当たり前の日々こそが、石垣島の田んぼにつながっているということは、いつも確認してゆく必要がある。石垣には真南風のメンバーの一人である、仲新城淳という方が78歳で、9ヘクタールの田んぼを自然農法でやられている。今日この方にお会いできる。そのことはまた改めて。沖縄本島でも、宮古島でも田んぼはほぼ無くなってしまった。田んぼを失ったときにその土地は日本ではなくなってゆくのかもしれない。そのことをまだ田んぼの残っている石垣島で考えてみたいと思っている。
石垣は日本で一番古い人骨の出た島である。縄文初期の1万年を超える人の暮らしの有った島である。日本でも最も古い地層があるという。3季作の田んぼであれば今頃稲刈りである。2季作と聞いたことがあるが。 6月の稲刈りは報道されることがあるが、果たしてどうなのだろう。私としてはやっと出かけれられる季節になった。石垣島で田んぼの絵をかいてみたい。よく見てみたい。目にとどめておきたい。そして来年の田んぼのことを考えてみたい。絵も描いてみたいと考えてきた。そう、私の三線は石垣で作られたという伝説を聞いている。石垣のくるちで作られたという話なのだが。石垣は大工哲治さんの島であり、歌の伝統も深い島である。出来れば石垣の歌トラバーマを聞き、三線の師範から指導を受ける予定でもある。この項もまた改めて。何しろ暑い。ついた夕方でまだ28度あった。早朝の今でも暑い。