水彩人展が終わる。

   

水彩人展が終わる。入場者数は記録の範囲で6,527人だった。祭りの後で気が抜けるはずが、今日から稲刈りという次の作業が始まる。息つく間もないのだが、何とかこなせそうだ。まだやれたということがうれしい。水彩人展はずいぶん盛況であった。私としては良い絵と出会うことができて、やった甲斐の有る展覧会だった。展覧会を開くためには、相当の労力を費やすことになったが、充実した2週間を得ることができた。このような機会に出会うことはまずない。オリンピックに参加したスポーツ選手のような気分だ。晴れ晴れしている。展覧会に無事労力を出し尽くせたことが良かった。病気でもしたら大変だと思って、緊張していた毎日だった。出し尽くさなければ得るものも少ない。こんな機会を得ることができたのは幸せなことだった。

絵の上での成果は、覚悟が決まったということがある。私絵画の覚悟だ。絵作りを捨てて描く覚悟だ。本当にやれるかの不安はまだあるが、それ以外残された自分に向かう道はないようだ。長年学んできた絵画の習い性がある。良い絵とはこういうものであるという観念だ。その良い絵のスタイルを目指して絵をついつい描いてしまう。頭で絵を描くということだ。自分で妄想してしまった、良い絵というものに向かう意識。これを払しょくすることがなかなかできないでいた。観念で作り上げた良い絵の方角に、絵面を仕立て上げようという意識が問題なのだ。結局そういうことに能力がなかったので、世間的評価を得ることが出来なかった。その結果私絵画によろよろとたどり着いたということなのだろう。それは自分の生涯という意味では良くも悪くも、この道で全うするということだろう。やせ我慢ではなく、もうそれしか残されていないという私の人生の残りのなすべきことだ。

自分だけであるというのは、怖いことだ。人との交流をなくすということになりかねない。自分の世界に徹底するということが、人との関係を軽視することになったらい良くない。私絵画だからこそ、自分をさらけ出して人との交流をして行くということになる必要がある。独善ということになってはならない。水彩人の仲間は自分の観点から本音で見てくれる。この意見がとても重要である。おかげで今回の展覧会でも、自分の今の状況を確認できた。ただ家で絵を描いているだけでは、自分の妄想の肥大化や、精神のゆがみに気づかないものだ。反省をする訳でもないが、確認をすることは必要である。こうしてブログに、今回気づいたことを書いておくのも、すぐ都合よく忘れるからである。その時々で調子よく自分をやっているものだ。

 

篠窪の風景の連作。大きさは中判全紙。春から初夏まで通って描いたもの。

私の今回の絵は恐ろしく元気がなかった。エネルギーがなかった。まだその意味はよく分からないが、風景を写すことに専念したら、このような絵になった。見ているということ。見えているということ。この奇跡のような素晴らしさへの自覚がまだ足りないということかもしれない。課題が見えた展覧会だった。

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