震災から4年の繪
震災から4年経ち、海の絵が描けるようになっている自分がいる。震災前のように描ける訳ではないが、何か描き残しておかなければならない気持ちで海を描く。自分が絵でできる事は、震災の記憶を留める事だと思っている。海は少しも変わらないはずなのに、何が変わったのかと思うばかりだ。人間の眼は震災前のように海が見えていない。あの直後は誰しも海が怖いものに見えて、描くどころではなかった。海にかかわらず絵を描く事が出来なかった。絵を描くと言う事は自分の見ている物を描くのだから、見ている物の意味が分からなくなると、私には描く事はできなかった。見ると言うことの意味を改めて知らされた。福島原発事故の放射能は小田原でも出荷停止の作物があるほどの汚染をもたらした。しかしその放射能は目には見えない。目にはみえないが決定的な汚染を残した。その見えないはずの物の恐怖の目で見て、絵を描くと言う行為となる。その見えない汚染の意味を絵を描く感性が解釈をしようとする。
自分の理性も、感性も、混乱させられどうこの事態を受け止めたらよいのかが分からなくなっていた。それは今も続いているのだが、どうにもならない事は諦めるしかないという、絶望に近い形で受け入れ始めている。電気が無ければ、人間は死んでしまう。このように安倍氏は原発の必要性を説明した。電気と言うものが、現代文明を支えている事は間違いが無い。電気を生産するには、原発を利用するしかないというのが、現代文明だとすれば、随分危うい土台の上に自分達が暮らしていたという事になる。災害はすべからく想定外であるという事を、今回の東日本大震災では教えられた。津波は堤防で防げる想定。ここまでは津波は来ないという、避難所の想定。想定を越えてしまうから災害なのだろう。あの津波以来、何が起こるか分からないのだから、ともかく逃げると言う事が、何よりと言う事になった。
そうした日常のあれこれも含めて、海は見えている。海は変わらずあるのだが、美しく見えたり、恨みに見えたり、悔恨の海、懺悔の海、どうしても海を見るとそういう海になる。反原発の作品では、青木伸一さんの降り注ぐものを描いた作品が、心に残っている。具体的に何が原発なのかという事になるのだが、原発のもろもろが深く絵にとどめられている。私はどうだったかと言えば、あの計画停電の中、湘南バイパスのサービスエリアから、やっと月に輝く海を描いた。鎮魂の海。絵はピカソの反戦のゲルニカといっても、その意味が書いてある訳ではない。説明が無ければ、多分ゲルニカに込められた反ファシズムの怒りはみえない。しかし、その意味を知ってみてみると、ゲルニカ以上に戦争の無意味さを感じさせる絵は無い。ドラクロアの有名な「自由の女神」をみても、革命の意味を感ずることはできない。ドラクロアには、革命の本質的な意味が理解できていなかったのだろう。
絵画と言う物は、時代を反映している。そして現代の絵画は原発を受け止める事が気なかった。原発事故後に、原発とはまった関係のない個展が無数に開かれていた。公募展の絵も、大多数の絵がそうした絵であった。絵を描くと言う事が、その人が生きているという現実とは切り離されいるのだろう。フジタの戦争画のように、紙芝居のように見聞きした絵空事を写真的リアルさで描く戦争画は、フジタの写実技術の表面的巧みさだけの空虚さが不愉快な証拠として残されている。ところが、この実の無いフジタのインチキ性が、本物のインチキであるというすごさにも至っているのだから、絵は恐ろしいものだ。人の事ではなった、自分は今どう描くのか。描いているのか。この事は自分が絵に問われているという事になる。