翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明
翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明。と言うものが出された。1200人の言論人が賛同の名前を連ねている。こんなことを改めて、行わなければならない状況に情けなさが沁み渡る。イスラム国の誘拐殺人の利用は、安倍政権の悪辣な報道戦に移っている。たとえイスラム国がせん滅できたとしても、テロを生み出した原因はすこしも変わらない。世界の行き過ぎた競争経済が生み出す、格差の状況は変わらない。いよいよテロと戦争の時代に入ったと考えなければならない。能力主義をはき違えた資本主義が弱者を追い詰める。資本主義の弱者を食いつぶす、競争主義の暴虐が収まらない限り、世界の状況はさらにひどい事になる。ゆがみきった能力主義の蔓延である。自己責任論である。その裏にあるものは、特権階級がより支配を強めたいという欲望である。その表れが、能力とお金とだけを結びつける即物文化が格差社会と言う形で世界を覆い始めている。
このひどい状況の原因と、分析は何度も書いているので、自分がどうしたらいいかを考えてみたい。結局の所、暮らしを再考することだと思う。自分が生きると言う事を見つめ直してみる以外にない。人間が産まれてきて死ぬと言う間に何をするかである。人間は、一日1時間の労働で食糧の確保が出来る。食べ物があれば、最低限生きて行く事はできる。これが命あるものすべての、条件のはずだ。この安心が土台である。幸い日本では農地は放棄されている。人口も減少して行く。自給に利用するような小さな畑は、どこにでも存在する。格安に使えるだろう。多分、無料で使わせてもらえる所も多いいはずだ。家はどうだろう。空き家が14,5%だと言う。約820万戸の空き家があるという。仕組みを替えれば、それだけの人が住む場所がすでにあると言う事だ。どこでもいいなら住む家も、格安に見つかるだろう。
衣食住と言うから、服はどうしたらいいかと言えば、貰えばいい。捨てられる服が山ほどある時代。リサイクルセンターにでも行って欲しいと言えば、きっともらえるはずだ。衣食住が足りて、命だけはつなぐ事が出来る。後の23時間は好きに暮らせばいい。出来るわけがないと思う人は、是非私の自給の実験をした30年に思いめぐらせて欲しい。農業をやりながら、世間と同じに暮らせるかと言えば、それは間違いなく無理である。普通とは違うように暮らせば暮らせるという事だ。その暮らしこそ本当の暮らしのはずだ。先日も農の会に農業機械をくれた廃業をした農家の方がおられた。有難いことである。しかし、もう後継者もいない。機械の行き場もないと言う人も結構いる。勿論、農機具屋に出すということだろうが、中には、農の会のような組織で農地を維持してくれる人に、有効利用してもらえばと考えてくれる人もいる。
これから時代は困難さを増してゆくに違いない。テロと戦争の蔓延する時代に入ったと考えて置いた方がいい。われわれ世代がこんな世界にしてしまったのだと思うと、次の世代にもうしわけない限りである。余分の欲を捨てて、日々を暮らす。欲を捨てれば、人を押しのけなくとも生きて行ける。それを競争からの脱落と考える事はない。自己新にひたすら生きればいい。人の上前を撥ねる生き方を良しとしない事だ。能力にしたがって、あるようにそのままに生きれば、暮らしの喜びを深く感じる事が出来るはずだ。私は朝湧水を汲む。この事は、水道の出るありがたさからみれば、何と不便な事であろうか。しかし、日々湧水で暮らす喜びを思えば、何とも深い喜びを伴うものである。一つの卵をいただく。このありがたさがある。すべては物そのもののありがたさを感じられるかどうかにある。金銭的価値に換算した途端に、見事にその価値は消えてゆく。目を覚ました人だけに開かれている暮らしである。可能性は一人にかかっていると思う。