人口1億人の目標
東伊豆海岸 10号 小川和紙 先日この場所をもう一度描こうと出掛けたが、少しも描く気に成れなかった。何かが変わってきたと感じた。
日本の人口目標は1億人となる。骨太の方針と名ずけられた、政府の50年先の目標に盛り込まれるものだそうだ。自ら骨太などと、目標に色合いを付ける所が、安倍政権らしいしらじらしいところである。骨太らしいが、だいぶ骨密度は低いスカスカな内容のようだ。50年先を目標は掛け声だけで、具体策がある訳ではない。しかも、人口が減ると、経済の再生ができないという、みみっちい理想のない話だ。人口が1億人くらいが、この国土に自給的に暮らすためにはちょうど良い人口ということなら、まだ分るが。その場合、1億人は多すぎる。6から7000万人ぐらいがいいところだろう。世界との経済競争に勝つために人口増加するなど、何やら、ウメヤフヤセヨの戦時中の標語が聞こえてくる。人口は多くない方が、この国土を理想的に利用することができる。日本人が幸せに暮らすためには、どのような国になることが重要かが、骨太の目標の意味であるはずだ。競争に負けまいと人口増加を願うなど、見苦しいばかりである。人口が減少を始めたのは、日本人の安全感覚ではないだろうか。
人口維持目標が堂々とした骨太という感じはしない。5年先には人口の減少を縮小する。10年先には出生率を2にする。というような具体的なものであれば、本気の目標だと感じられる。50年先の責任の生じない目標なら、自然エネルギーにすべてを転換する。というようなことだって誰にでも言える。しかし、現政府が日本の人口を1億人ぐらいがいいと考えているということは分った。政府目標と言えば、あの成長戦略の一つが人口1億人というのでは、あまりに情けないことではないか。具体的な戦略と言えるようなものはついになかったということを正直に認めるべきだろう。量より質。人口一億人より、日本人の質を目標にすべきである。日本人の劣化の一番の原因は、成長する過程での実体験を失ったことにある。自分の身体で、体験的に行動する。観念的に人間が成り過ぎている。それが、最近の信じがたいような、人間劣化に現われている。
国際的企業への優遇政策が目立つ。これも骨太なのだろうか。韓国のような国が骨太の国ということだろうか。強いものがさらに強くなり、国際競争力を付ける。その大企業が日本を離れない為に、法人税を下げる。こうした大企業本位と、いつも共産党が批判していた姿が、今の政権ほど明確になったことはない。先日テレビ東京の解説者のような人が、法人税を7年間以上払わない企業が47%ある。そういう企業には止めてもらう必要があると強調していた。なるほど骨太の意味は、こういうことかと納得がいった。そもそも法人税値下げのことなど利益の出ていない企業には関係のないことだ。企業の競争力を高めるためには、人口が最低でも1億人必要という計算なのだろう。役にも用にも立たない人間でいいのだ。何かの為になるために人間は生きているのではない。自分の生命を全うするために生きている。
全く成長戦略などと呼べる代物だろうか。これで経済は良くなる良くなるだけを言い募るのがアベノミックスの、空想の戦略のようだ。骨太の方針はまさにこれで、50年先なら何をいってもかまわないから、不可能をあたかも可能なように言い募って人気を取ろうということとしか思えない。世界には強盛大国とか言う、目標と実像の乖離した国家もある。勇ましいことを声高に叫ぶものは、要注意ということは、世界の独裁政権の常である。人口一億人であった。人口は私は6~7000万人ぐらいではないかと思っている。日本の国土で人間らしく暮らすには、それくらいが良い。国家としての一塊りもその位ではないだろうか。人口が多い方がいいという掛け声は、例の国際競争力である。人口が減れば、移民も受け入れようという考えである。企業の労働力は、人種とは関係がない。むしろ、劣化してきた日本人より、嫌な仕事を引き受けてくれるということもある。
。