もう一度自然養鶏
2025/12/22

自然養鶏を鳥インフルエンザの流行の時に止めた。日本一の自然養鶏をやっていたつもりだった。それが、家畜保健所や、警察や、地域の自治会から、危険な養鶏だ、と言われて何か馬鹿馬鹿しくなって止めた。権力というものがアホらしくなって止めた。
今になってもう一度やる気になった。今の社会がかなり悪くなっている。自給農業がますます重要になる。自給農業の循環のためには鶏を飼う必要があると考えているからだ。始めるにはかなり大変だと考えていた。しかし、自給農園の形に養鶏がないというのではやはりおかしい。
来年はのぼたん農園も5年目に入る。ほぼ形が出来たから、と言っても水牛牧場や、黒砂糖絞りはまだ形すらないが。ここに養鶏を加える余裕が生まれたと言うことになる。始めるのは養鶏の研修生が各曜日2人づつ7人揃った時に始める。
農園のメンバーの中に2,3人の組でやるなら、加わりたいという人が7人いた。その人たちで、各曜日を埋めてもらい。新たに一人か二人を募集する。それができれば最低、各曜日が二人になったならば、始めることにする。実際に鶏を飼うために準備で半年ぐらいはかかるだろう。
各曜日3人までである。研修生は最低一年間は継続する。月曜日を申請するものは、毎週月曜日の12時から、4時までは必ずのぼたん農園に来て、作業をする。ただし、各曜日の申込者が7人揃ったときに始める。各曜日の定員は3人まで。講習料は無料。
また、担当の曜日にたまごを産んでいれば、卵一つは私が貰う。私はほぼ毎日かかわることになる。それ以外の卵は各講習生のものになる。1人あたり2羽の鶏を飼うから、15人から始める。3×7+1=22人の44羽になる可能性がある。最低2×7+1=15人になったところで、30羽の養鶏から始める。
講習生は一年間講習を行えば、独立して自然養鶏が出来るように技術指導する。私の書いた「発酵利用の自然養鶏」を購入し勉強して貰う。また、講習生には、のぼたん農園の作業も出来る範囲でやって貰う。講習生の中に田んぼや果樹園も参加したい人がいれば参加してもらう。
あくまで、自給養鶏の技術である。養鶏業のような利益を求めるものではない。経済合理性から言えば、矛盾だらけのものである。生産性も高いものではない。自分が鶏を飼いたいということが根底になければならない。鶏が好きな人でなければ、良い養鶏はできない。
鶏を大事に大切に育てたい。その気持ちがない人は鶏は飼わない方がいい。水牛を飼うのもそうだが。水牛と接することが楽しみという人でなければ、生き物を飼うことは難しいだろう。何しろのボタン農園の水牛担当の島田さんは無人島で水牛と暮らしたいという人である。
私の自給農業は鶏から学んだものである。6歳から鶏を飼った。おじの笹村草家人から、小国のつがいをもらったことが始まりである。上野公園で日本系の展示があり、芸大の教員だった叔父が、そこでもらい受けたのだ。そしてなぜか私に小国を飼えと言ったのだ。叔父は上野原で東天紅を飼うことになった。
そこから鶏にはまった。たちまちに家は鶏であふれて、100羽にまでなった。早朝に「やっちゃば」に行って、野菜くずを集めて鶏のえさにした。あとは米ぬかぐらいだった。日本雉飼って子どもをとったこともあった。フクロウを飼ったこともあった。
今の時代、鶏を子供のころかったというような人はいないだろう。だから、飼ってみない限り好きか嫌いかもわからないはずだ。生き物を飼うということは、生き物から学ぶということだ。鶏の生きる姿は、自然と生き物とのかかわりを教えてくれる。自然養鶏は自然の中に鶏をいかに順応させるかの養鶏である。
自然養鶏は養鶏業ではない。産業としてやるなら、大規模養鶏だろう。平飼い養鶏というようなものは、危険の多い問題養鶏だとむしろ考えている。自分が食べる分だけ家に鶏がいるという形である。自然養鶏はむしろ家庭養鶏である。この自分の分だけをのぼたん農園で共同で行う。
一人でやるよりかなり楽なものになる。2分の1の労力になる。一人で飼えば旅行にもゆけない。7人で飼えば、週一回の4時間で済む。協働の力である。この新しいやり方をみんなで探求して、まとまった形で提案したい。人間が協働しなければならないということの提案をしたい。
参加希望者はsasamuraizuru@gmail.comまでメールで申し込んでください。何曜日希望を明記してください。今は各曜日にのぼたん農園のメンバーがいます。早ければ、曜日の選択が可能です。多分土日に集中すると思います。
ここまでで、フェースブックの方には上げた。今の鶏を飼う気持ちをもう少し書いておこうかと思う。前半で描いたように自給農業に必要なものということもあるが、のぼたん農園全体のことがある。まだ、全体の方向が生まれていない気がしている。協働自給の考え方が定まっていない。
それは誰かが言葉にして支持するようなものではない。自然にそうした方角が生まれるのでなければ、意味がない。私が方向づけるとしたら、継続性がない。自然にみんなが良いという方向が生まれなければならない。その意味でまだまだ方角は出てきていない。
多分参加者の中には私が方向を主張しているのだろうと考えている人もいるのかもしれないが、私も一因としての方角はあるが、どちらかと言えば私はみんなの望む方角を見定めている。みんながここで永続可能な方向を探してほしいと思っている。ここは何かをしてくれる場ではなく、何かをする場だということ。
自給的生活を考える人たちの多くが、一人で暮らす方向である。一人でやりきることを目標にする。社会から離脱して一人でやる。こう考えるのが普通だし。私もそうだった。だからみんなでやる自給というと、ちょっと距離があるのだと思う。そう「一人でできたら、みんなでね。」ここが重要。
一人でやり切れる人の、次段階はみんなでやることだと思っている。養鶏を一人でできる人の次段階が、みんなでやれる養鶏だと思う。私はこれには挑んでいなかった。みんなの田んぼ。みんなの畑はやってきたが、みんなの養鶏がやれるのであれば、挑戦してみたい。それがのボタン農園でできるかもしれない。
みんなでは一人よりも難しいことだ。平等ではないということだ。能力差があるということだ。これを乗り越えなければ、次の社会がない。資本主義社会では、能力差を認めている。優秀な人間が多く取る社会である。しかし、今その限界にきている。次の社会は能力主義のない世界だ。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。宮沢賢治の求めたイーハトウブの世界観である。何とか次の世界の入り口まで行きたい。そうしなければ、弱いものが踏みつけられる社会がそこまで来ている。若い人ほどそうした思想を受け入れているようだ。しかし、そのまま世界が進めば、悲惨な状況になることは目に見えている。
人を食いつぶすために、競争し、出し抜くものの世界になる。一部の富裕層のための社会になる。今そんな社会にしないためには、自給的な思想を確立することだと思う。能力差別のない協働。互いの人間の良さを生かしあう自給の協働。能力があるものならば、ないものを補う喜びに生きることができるようになること。
今回自給養鶏を始めるにあたり改めて、のぼたん農園の考え方を整理してみた。この考え方に共感できる人の、参加を期待している。私自身もそうありたいと考えてこれからののぼたん農園の方角を探ってゆくつもりだ。どんな人が来てくれるか楽しみにしている。