主権回復の日とは、
主権回復の日を改めて行うという政府の目的を想像してみる。自民党安倍政権の時代錯誤の感覚を良くあらわしている。安倍氏は人形なのか、思想がある人なのか、実は無能な人なのか。もう60年以上経ってから、この日を改めて記念日にする理由。安倍政権が日本国をどういう国と考えているかの一端が表れているのだろう。本来あった主権を戦争によって失う。その失敗した戦争という選択を忘れないためということか。今もって自民党は、アメリカ依存気分を存続しているように思える。これからの課題として主権を回復しようというナショナリズム記念日という方が、ふさわしい意味かもしれない。そういう活動をしている右翼組織もある。サンフランシスコ講和条約は昭和27年1952年4月28日、発効する。第2次世界大戦に敗北し、約7年に及ぶ占領から解放された日。一方、沖縄や奄美群島、小笠原諸島は占領状態が継続して取り残された日。解放は1972年であり、20年間取り残されたままであった。
この式典に、天皇皇后をお呼びするというのは、皇室の政治利用といえないだろうか。皇室と過去の戦争といささかも関係させてはならない。憲法に抵触しないか、検討の必要がある。主権と天皇の関係を考えてみる必要も出てくる。出来る限り異論のある集まりに、天皇を利用しないことである。それが天皇というものを大切にするということである。安倍政権に、知恵のない、節度のない姿勢には実に残念である。主権回復と天皇という関係が出てくると、天皇の戦争責任ということまで出ざるえない。つまり、主権を失った責任はどこにあるかである。こういうことが、日本的にあいまいにされてきている。曖昧さはある意味日本の良さである。その良さを生かすためには、こういう場面で天皇を利用しないことだ。昭和天皇は戦争責任を引き受けるつもりであったと思う。しかし、日本という国の戦後処理をするために最善の選択をしようとしたとおもう。いまさらほじくり返してどうするのか。
憲法における主権は「ここに主権が国民に存することを宣言」(前文1項)「主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)「日本国憲法の三大原則」というものがある。「基本的人権の尊重」「平和主義(戦争の放棄)」そして「国民主権」。「国民主権」とは国の政治の在り方を最終的に決することのできる力又は権威が国民にあるという意味。はたして、そもそも回復どころか、国民に主権があったことがあるのかどうかさえ疑問が湧いてくる。国民主権確認の日ということにしたらどうか。ここでいう主権の回復は、日本という国の独立を対外的な主権回復と限るのであろう。あえて記念したいというのであれば、沖縄返還の日1972年5月15日の方がふさわしいのではないだろうか。一部の国民と地域の独立が回復されていない状況を持って主権回復とは言えないわけである。沖縄を切り離した、無残な差別される側の立場を理解し、尊重すべきだ。
安倍政権の主権回復とは、本土において、7年が経過して占領と敗戦処理が終わったということなのだろう。今もってアメリカ軍基地の沖縄固定化が行われている。その負担軽減に対し、口先だけで本当に取り組もうという代替地域がない。日本が軍隊を持たない状況下、米軍を必要だとしているという考えであれば、いまだ、主権が回復した状況とは言えないだろう。やはり、改めて60年たった今主権回復の日を行事として行いたい気持ちは、軍隊を持ち主権を回復したい日という意味を含んでいると考える方が妥当である。それを置いておいて、日本という国を国民全般に考えてもらいたい日という主張なのだろう。そのことは必要かつ正しい政策である。その日が敗戦、占領からの解放の日では、少し違うと思う。日本は瑞穂の国である。そのことを象徴する新嘗祭という日を、勤労感謝の日から変えたらばどうだろうか。