裁判員制度の3年

   

裁判員裁判の導入から3年が経った。この法律では3年での見直しが定められている。裁判員制度には当初から反対であった。是非この見直しの機会に廃止して欲しい。裁判員裁判で十四人に死刑が言い渡された。17人の検察の死刑求刑に対する結果である。重罪化が予測された通り進んでいる。死刑制度については、いろいろの角度から考えてみているが結論は出ない。裁判員においても心理的負担は大きい。死刑判決後心の重荷になり、被告の姿が脳裏に浮かぶという裁判員の談話がある。死刑執行の絞首刑実行する役目も、国民等しく負うべきだという訳ではない。その内死刑執行の立ち合いが義務ずけられるかもしれない。法務大臣が経ちあったことがあった。立派な身の処し方だとは思ったが。全くやりたくない裁判員を法で義務付けるなど、耐え難いことである。

それぞれの道に専門家がいる。それだけの訓練を積んだ人にお任せする。こうした考え方は悪いことではない。裁判官という権威あるものが裁判を行うという、了解はあったのではないだろうか。裁判官の判決の権威というものも、低下して行くことになる。国民が等しく信頼し、尊敬する。その信頼に対して誇りを持って答える。そうした従来の裁判制度の復活を望む。訓練を積んでいない、素人の集団に判断などして欲しくない。何十人もの犯罪者を見てきて、分かるということもあるはずだ。殺人をする人に対して、普通の人は生涯接することも無い。そうした人間が殺人を犯した人の更生の可能性など、考えられるだろうか。まだ、高裁があると思っていたが、1審尊重ということで裁判員の判断が優先される傾向である。裁判員制度は、司法関係者に対する信頼がない為に出来たものであれば、逆行である。司法関係者に対する、国民の不信が根拠か。裁判官より素人の方が良いという理由がどうしても理解できない。

裁判で一番恐れるのが冤罪である。冤罪で死刑にされる怖ろしさ。子供の頃から何故かそう言う夢を見た。政治家の裁判では、起訴するということで政治生命を絶つということがある。過去裁判で政治生命を断たれた人は多々ある。官僚の策謀ではないか。アメリカ政府の差し金ではないか。こう言う千作が今でも行われている。裁判員裁判ではないが、小沢裁判では検察審査会という素人の判断で、総理大臣とも言われた人物が政治生命を断たれた。もちろんその審査会にかかわった人たちが悪という意味ではない。専門家達は基礎出来なかった重い判断を、素人がしたということである。検察が不当に起訴しない事件を無くす。これが目的である。政治家の場合、基礎の影響が強くでる。ふさわしい人材を集め第3者機関が検察審査会を構成すべきだ。不審に思えば、国民等しくこの第3者組織に訴え出ることが出来るようにする。そして判断を公表する。偏向した不起訴判断をできなくする方法はある。

そもそも人間が人間を裁くことなど出来る訳がない。裁判制度はやむを得ずやることである。死刑判断は全員一致に変えるべきであるという事が言われている。そうなると死刑廃止論を持つものが、偶然紛れ込むかどうかが、死刑か懲役かの分かれ目になりかねない。疑わしきは場合は無罪ということが原則である。100日にわたる長期審理となった木嶋佳苗被告の裁判が好例である。検察は被告による連続殺人だと主張。一方、被告側は無罪を主張して真っ向から対立している。決め手となる直接的な証拠はなく、あるのは間接的な状況証拠のみ。専門家ですら判断の難しい事件で、市民から無作為で選ばれた裁判員たちが決断を迫られた。死刑判決は辛かったことだろう。このようないやな事件と3カ月も向かい合わなければならないこと自体が、避けたいことである。3カ月思い悩んだことが、これからの生涯に影響する可能性がある。私が当たる前に、廃止して欲しいが本音である。

昨日の自給作業:田んぼの草刈り2時間 にんにくの収穫等 2時間 累計時間:12時間

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