沖縄で考えたこと 4

   

沖縄は本土復帰40年である。政府は記念式典を行っているが、復帰はアメリカの占領が終わるという私の中での意味で、大切なことであった。当時は共産党を中心に、本土の沖縄化が盛んに言われたが、虚言であった。しかし、当時佐藤総理が国会答弁した基地負担の軽減ということも、ほとんどすすまなかった。野田総理も40年たって同じことを語る。実行しなければだめだ。私も何もできなかった。軍事基地確保としてというアメリカ側の意識が現れている。沖縄では県議選が6月10日に行われる。すでに候補者が交差点に立って旗を振っている。この旗が、タロウとか、ハナコとかカタカナで書かれている。至る所にあるので最初は何かの宣伝かと思ったが、選挙旗だった。これがまだはるか公示前で、膨大な数たっているのは、やはり基地問題が選挙をはげしているということだろう。その旗の間を子供たちが学校に向かう。この姿はのんびり駄弁りながら、道草をしながら、行きつ戻りつ学校に向かう。とてもいい姿である。

祈りのことを考えてみたい。沖縄の近代の中には、母性的な祈りというものが残っていた。お城においても、そうした祈り行う場所というものが重視されている。消え去り行くノロという展示が、今帰仁村の文化センターで、しっかりとしたノロに関する資料展が行われていた。ノロの持っていた宝物なども展示されていて、特別な存在であったことが実感された。おどろおどろしい空気がない。イタコとは違う。ノロは公務員であったという書き方があった。公的な存在という意味を言いたいのであろうが、意味が違う。暮らしに不可欠なものであったといえば公務員なのか。明治政府はこのノロに対して、資格制度を課す。ノロはそんな試験は受けないために、神官としての資格を失う。消え去るひとつの理由になる。ノロに筆記試験を課せば、やめざる得ないだろうという、愚劣。明治の近代化のおろかさ。

城の3段目が儀礼で集まる石垣で囲われた大広場。2段目が大きな建物があった場所。そして一段目にはるかかなた海を臨む場所にといえる場所に祈りの場がある。母性的な祈りが近代まで現実を変える力を保ち残っていた。その姿をついこの前まで、かすかに見ることができた沖縄の離島。たぶんそれは日本全土がそうであった時代を想像させるものがある。母なるものだけが天地に届く、祈りの力を持っていた時代。久高島に関する「日本人の魂の源郷」比嘉康雄氏にはある。こうした「母たちの神」による祈り。生まれて来たことと、死んで行く先を明らかにして生きる時代。死んで煙になって東の海のかなたに立ち上ってゆく。もうこういう気持ちになることはできないが、これを否定的媒介として、生き方に反映できないものか。

久高島のウタキの周辺には行ってみた。立ち入り禁止というので、中には行かなかった。低い石垣で囲われたている。道路からは木が生い茂っていて見通しはつかない。20メートル四方くらいの石垣と、10メートル四方くらいのものがあるようだ。位置は平らの島のほぼ中央部で、首里の方角に向かい合う場所。ここでは琉球全体の祈りが行われていた。祈りというものが、宗教に結びつくと、曹洞宗でさえどこか現世利益的な不順な匂いを感ずる。しかし、暮らしの中に祈りが必要であるということは、今回学んだ。父であり、母であり、ご先祖ということがわかりやすい。そして、自然。作物を作るということは、祈りといつも接している。祈りは自然というものに向かう。その自然を司るものへの祈り。

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