炭素循環農法

   

書かない方がいいことである。しかし、性分というか、頭に浮かんだ事はやはり書いておく。3月10日に二宮の中村さんが主催して、エンドファイトの講演会があった。50人位の人が集まった。中村さんの長年の地道な活動が作った仲間なのだろう。炭素循環研究会の人が多いらしい。茨城大学の農学部の準教授が講演をした。二宮のラディアンで午後1時始まり、夜の8時まで聞いていたのだから、随分長い企画である。エンドファイトとかいう微生物の話が中心の話題だった。中村さんが時々この言葉は言われてはいたが、微生物の事だと今回初めて知った。多分エンドファイトと炭素循環は繋がっているのだろう。この農法について、この機会に少しでも疑問が解消できればと聞いていた。結論としては、申し訳ないが私には合わなかった。農法というものは、生き方である。自らが正しいと名乗るような断定的な農法には、気持ちの開きがある。

講演者はカナディアンロッキーが素晴らしいと感じるそうだ。私は竹林の中の澄んだ感じが好きである。それぞれの理由がある。農法は競争ではない。各々の思想哲学である。良い農法は何千年の歴史の中で育てられている。新しい視点で考えることは大切だが、何十年繰り返してみなければ、決定的な判断など出来ない。一時もてはやされ消えていった農法は、数多い。何も言わないでも、良い農法は定着する。「話の途中でも、何でもいいので質問を出して方向を変えて欲しい。」初めに、講師の人が謙虚に言われた。真に受けて質問をしてしまった。有機と無機の炭素のあり方を質問をした。炭素循環農法という以上、そこに何か思想があるのかと思った。「そう言うことはどうでもいいことです。」この断言解答には正直がっかりした。中村さんのフォローの意見。「炭素は命に連携する。」これは興味深い意見だった。根圏の微生物に着目するのは大切なことだ。エンドファイトだけではなく、もう少し総合的に考えてみる必要がある。

エンド・ファイドという微生物だけが森林世界を作っているはずがない。植物を支える土壌や根の周辺には、様々な生き物世界が広がる。無限の世界が広がっていると感じたい。ある微生物だけを取り上げてそれさえ着目すれば、すべてが理解され、解決するというような考えは危険ともいえる。あくまで、エンドファイトという微生物に着目して考えた、一つの側面というに過ぎない。生き物には意味のわからないやつもいる。迷惑な奴もいる。そしていくらか役に立つ奴もいる。土壌中の微生物は人間の為に存在する訳ではない。土壌の中の世界のイメージは、世界観であり、宇宙である。より広く大きく広がる、豊かな思想でありたい。何ひとつ特別なものがないというのが私の土壌世界観。農業に有用であるとか、無駄であるとか決めつけることは、次元の低いことになる。特定のものを抜き出して、特殊な状態を作ることは、必ず問題が起きる。これは殺菌する思想に繋がる。

あくまで人間が出来ることは、自然に対する手入れである。自然の持つ循環を邪魔をしないように、暮らしの生業を織り込ませてもらう事だ。足るを知るために、農業をおこなう。技術はとても大切であるが、100人が100様の自分らしい技術を育てる方が楽しいし、大切である。農業はその人らしい、美しい空間が出来るから楽しいのである。深く生きるための農業技術。その自らの技術を育てるためには、一人ひとりが、個人としての思想を育てながら、考え方を広げて行けるような大きな土台がいい。どれほど、まだろっこしい農法であれ、その人らしく暮らして行ければ、最善であり充分な農法である。わたしなりの土づくりがある。それは私の育てている行動であり、生き方であり、思想である。これだけが正しいなど全く思わない。あくまで、ひとつのやり方である。

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