原発60年廃炉案

   

原発は30年が耐用年数と言う事を聞いていた。深刻なレベル7の事故を、40年を越えた古い原子炉が起こした。その原子炉の事故原因は現在も調査中である。そのさなか原子炉の耐用年数を40年とし、20年までの延長を認めることになった。神経を逆なでする怖ろしい決定が、まだ事故も収束できないこの時期に決める怖ろしい政府である。そのいい訳として、40年を耐用年数として、20年の延長はよほどのことがなければ、認めない。こうしたいい訳を細野原発相は発言している。それならば30年を耐用年数と素直に決めればいい。そして充分安全と分かった時、10年だけの延長を認める。まだ使える施設をもったいないというような、曖昧で済むような施設でない。一度事故を起こしただけで、これだけの被害が出る。国民の反応を見ているのだ。ほとぼりが冷めたらまた原発である。経済を考えたら必要だと言う発言も目立ってきた。

原子力発電と言う技術は、現在進化の過程の技術である。多分最後まで人間がコントロールは出来ないものだろう。今行われている技術は実験室段階の技術が、軍事目的で危険を承知で、巨大化したようなものである。商業用の運転をするほど洗練されたものでは無い。機械的技術として可能性のあるものなら、一般的に30年もしたら過去の仕組みは陳腐化していて普通である。30年前テレビは、現在では見る影もない。そうした技術革新が、実は期待できない技術だった。40年前のものをさらに20年つまり、60年経っても、進歩もない最先端技術とはいったい何を意味するのか。つまり、人類の手に負える技術ではなかった。どうしてもやるなら、実験室であと100年くらいは、練りに練ってみたらいい。それで何とかなるという技術が生まれるならば、実用化すればいい。これほど危ういものを経済優先で実用化したことが、人類の誤りであった。

資源がないということで日本は焦りすぎた。戦争に負けたということで、何とかして見返してやろう、1番じゃなければだめなんだ。という意識で道を誤った。確かに、立派な戦後の高度成長である。この道をひたすら頑張ったことは、立派だったし、見事であった。敗戦という苦しみから無理もなかった。人間と言う生き物がこうなるのは、あながち否定はできない。しかしこの道は、戦争に至った道をもう一度歩んだことだった。もう競争は充分だと思う。競争はもう辞めた方が良いと思う。危うい原発に支えられた豊かさはいらないと思う。当面、電力が値上げされたとしても原発が再稼働されるよりはましだと思う。10%の値上げになるなら、家庭ではその分電力の10%の節約すればいい事だ。電気炊飯器でご飯を炊いても、保温はしないということで可能である。

原発は安いエネルギーと言うことだった。60年、いや壊れるまで使って使い捨てれば安いという話のようだ。今回の事故原因も十分に検証されていない段階で、60年は使える法案が出てきた。このやり方で事故を起こしたのだ。自己の検証も終わらない内に、使用年限を延ばす法案を作る人たちが居る。原発神話がゾンビのように、再生してきている。壊れるはずもないという神話に従い、使える間は使いたい。事故などある訳がないという、例のパターンだ。政府もさすがに法案の文面を変えて、ごまかそうとしているが、シンプルに30年、延長しても40年で良い。そして、早く日本各地から原発が無くなることである。2月11日はさよなら原発パレードがある。

昨日の自給作業:みそ作り前事実準備を含め11時間 累計時間:12時間

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