お米の味

   

昨年の暮れには、農の会でお米の食べ比べがあった。20か所くらいの田んぼのお米を食べた。どれもそれぞれであり、それなりであり、甲乙つけがたかった。それで十分であると思っている。味でお米のすべてを見ようとする人が居る。良い栽培だから美味しい。有機農業のお米だから美味しい。水が良いから美味しい。魚沼産コシヒカリだから美味しい。全部嘘ではないのだろうが、味という基準を信じない。味など揺れるものである。そんなものに依存して物作りはできない。味というのは受け身のものであるし、誰もがかかわれるものだから、厄介なところがある。食味計というものがある。アミロース、タンパク質、水分、脂肪酸、こういうものの含有で美味しいということに決められている。人間も情けなくなったものだ。自分で美味しいが決められない。美味しいは自分が決めるものだ。

水分量と言ってもハザ掛けで残る水分と、乾燥機で残る水分ではまるで違う。ハザ掛けでは生きたお米が呼吸をしながら、徐々に落ち着いて行く水分量である。15%が良いというのは、保存に具合が良いのであって、水分が多いハザ掛けの新米なら、20%だって炊き方である。乾燥機の熱風でさらされたお米の15%と味覚計は判別が出来ない。そんなもので美味しいのまずいのを決められる、現代の味覚の浅さと浅ましさ。天日乾燥というのは、種籾では当たり前で、発芽率が違ってくる。食べ物はすべからく命を頂くのであって、生命力が強い食べ物を食べる。それを美味しいと感じるように、つまり腐ったものをまずいと感じるように、人間は出来ているだけだ。それがグルメだとか言う方角に向かうのでは、フォアグラのように不健康がうまいに成る。生命力の溢れ出ている味を知るということだ。すでに舌で生命力を見分ける能力など大半の人間が失っている。それを食べながら学んでゆく。だから、お米の食べ比べで一番の主眼は、どれが美味しいか分からないものだを知る、ということである。

人間の好みは実に多様なものである。養殖ウナギの方が天然ウナギよりおいしいと感じる人が多数派だそうだ。天然ウナギの硬さをいかに柔らかく調理するかが、その昔の焼技であったらしい。硬いものを開いて、柔らかく焼く画期的技術。どこまで軟らかくしたとしても養殖とは違う。養殖の時代に成ってもさらに柔らかくとなるから、ウナギとアナゴがだかわからないようなものを食べて、柔らかいから美味しい。安易なものだ。となると、天然ものはイメージである。リンゴの品種中でどれほど味が違うか比べて見ても、マンゴーを食べたい人には、無意味なことである。結局は味覚というような頼りのないものに依存してはならないということである。自給農業で大切なことは、自分の好みに合っているということである。他人がどう感じようが関係がない。作りやすいものの中から美味しいさを見つけるということに成る。

舟原田んぼの今年のお米は格別に美味しい。ただし、炊き方が難しい。時々しみじみ美味しいな、という日がある。そうなると、ご飯に梅干しでいいことに成る。それは水だ。良い水で栽培したからだ。よい水とは生きた十分な水である。沼地のような水でなく、清々とした流れ水だ。そんな栽培を心がけながら夏までの水温を下げない。稲がどこまで元気であるかが決め手である。秋まで根に活力がある土壌。これを作り出す事が重要。収量とは裏腹の所があり多く取ろうとすると、味が落ちる。水を腐敗させないために、腐植質を出来る限り増やす。そしてその腐植質が、忽ちに分解されるような土壌。味などどうでもいいと言いながら、やはりある意味こだわっている。味は生命力の判断という意味で重要。味から学ぶということ。「さとじまん」は美味しい。山付きの田んぼに向いている。というのが今のところの結果。

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