花月園競輪の廃止
花月園競輪が本年度いっぱいで廃止される方向で検討されている。「神奈川県競輪組合あり方検討委員会」(山田紘祥委員長)の報告書では累積赤字が約49億円あり、10年度以降の業績改善の見込みが立たないことから、同競輪場を廃止する方向性が示された。
小田原の競輪場まだ続けるのだろうか。花月園が廃止されれば、小田原競輪は却って期待されそうでもある。以前小田原の広報は、裏一面「競輪に行きましょう。」のような馬鹿げた広告を載せたことがある。お城の動物園も同じことだが、止めると言う事は難しいものだ。そこに人間が関わり、暮らしがある。花月園とは又良い名前である。ここには何度か行った事がある。賭け事は好きではないから、競輪ではない。日本鶏の保存会の展示会が毎年ここで開かれていた。どういう意味の部屋だか分からないが、鳥かごが沢山並べられるような、体育館にしては小さめの建物がある。雨の日でも安心して展示できる場所がある。その状態も、鶏の糞で汚れても怒られそうもない、いい雰囲気に古びた建物であった。その後、鳥インフルエンザで鶏の展示というものが自粛された。
鶏を見に行くのであって、しかも開催日ではない。それなのに、花月園に近づくに従って、何かすさんだ空気が淀んでいる。砂埃とはずれ車検、予想新聞が、あたりに飛ばされている。いや、本当にそうだったとも思えないのだが、記憶のなかではそんな状態なのだ。賭博が嫌いだと言うのは、おぼれるに違いない弱い自分を知っているからだ。賭け事に良いレベルで、かかわれると言うような強い人というのはいるんだろうか。私は、将棋とか、囲碁にはまった。しかし、マージャンはやらなかった。マージャンは賭けるからだ。将棋も賭けなければ面白くないと言う人がいる。そういう将棋は指したくもない。囲碁はとても後味が良い。負けても勝っても、良い時間を過ごしたと言う充実感がある。競輪で走る選手。小学校の同級生のお兄さんが選手だった。時々帰ると、お土産が素晴しかった。「競輪選手らしいよ。」と言うような嫌な暗い空気があった。
ああいう、社会の持つ倫理観と言うか、まっとうな暮らし。一攫千金のような、アメリカンドリームを嫌うような、江戸時代の横並び感覚。そういう閉鎖的社会の締め付けのようなものがなくなったのは良い。今の時代が良くなっている一つだろう。競輪と言うスポーツは、とても魅力的だ。その素晴しいスポーツを何も賭博にしなくてもいいだろう。そういう気持ちがある。ローマの剣闘士の感覚と近い。今度は、女子競輪が、復活する見通。 競輪を統括するJKAは女子のレースを再開する方針を決定。オリンピックで勝つためという、こともあるらしい。クーベルタン氏なら何と言うだろう。橋本聖子選手、大菅小百合選手が走るのを、競輪として開催しようと言うことだろう。プロスポーツとして入場料を取ってやるのならいいだろうが、それにお金を賭けると言う感覚が嫌だ。
小田原競輪も少なくとも行政がいつまでも開催するようなものではない。行政が賭博を振興するようなことは、止める必要がある。人間と言うのはそれほど強いものではない。よほどの人でない限り、健全娯楽という訳にはいかない。賭博は麻薬性がある。はまると自分の意志で抜けられるものではない。酒→タバコ→マリファナ→賭博、常習性は強いと思う。税金が足りないからと言って、行政がマリファナを売ることはない。人間が賭博をやりたいという気持ちがあるのを否定は出来ない。やむ得ないと思う。公営と言うのは、まずい。パチンコぐらいの位置づけにして置いたらどうだろうか。