顔と身体

   

人間の顔というものは、面白いもので、50歳になったら自分で責任を持て、とリーンカーンが言ったそうだ。60と言う事はだいぶ責任は減じてはいるのだろうが。なかなか顔と言うのは侮りがたい。鏡を見ると言う習慣がないから、自分の顔はよくわからない。と言う事に先ずしておく。その上で、言う責任逃れの言い方であるが。顔相と言うのは、12宮、13部位、関連箇所が23。顔占いと言うのもある。当るも八卦、当らぬも八卦。と言う事で自分の顔を知っている人は試して見ると、面白い。人間にはごまんと山のように顔があるのに、判別できると言うだけでも、すごいことだ。それだけ顔には情報がある。赤ちゃんの顔が100と成ると、なかなか判別が難しい。子供にはまだ顔相というものがない。しかし、舟原の集落の100人くらいなら、名前は無理でも、顔の方は大体分かる。顔は日々作られている。

絵を描くから、見ると言う事には少々うるさい。見て事物の真をとらえる。絵ということはそう言う事だろう。見えていないものを見ると言うような、ことになる。写真で十分と言うような絵は、一応、絵ではないという事になっている。眼力。心眼。視覚的に真実を把握するのが絵画。人相と成ると、骨相、顔相、体相の3つ。風呂屋に行って気掛かりになるのは、顔と身体とが不適合な人である。風呂に顔だけ出して並んで居る時。何となくこんな人だろうと思いきや、立ち上がったとたん思いも寄らぬ人になることがある。顔が違う、のか。身体が、違うのか。極端にちぐはぐな人がいる。これは骨相的に違うこともあれば、体相の違う人もある。先日黒人の方で2メートル以上ある。ほぼ人間の究極の美という人を風呂屋で見た。筋肉の付き方、骨格のバランス。カールルイスでも相当に見劣りする。信じられないまま、目が釘付けになってしまった。失礼な事と思いながらも、目が離せなかった。

私の体相と来たら、これ以上ない貧弱である。風呂屋の最低レベル。その上で言わしていただくのだが、顔と身体が合わない人というのは、顔を作ってきた人だ。キューピー人形のように、挿げ替えられるなら、挿げ替えた方がなど余計な心配をする。顔も自然栽培品であるのが一番。風呂屋でついそんなくだらないことを思うのは、裸の見た目のほか、判断の材料がないからだ。つまらん事で怒鳴りだす人がいる。怒り出す人をなだめる人もいる。風呂屋に文句ばかり言う人もいる。その文句を言う人を諌める人もいる。いずれ知らない人同士で、狭いお風呂の中で調整をしながら、つつがなく楽しむ訳だ。犬ではないが、においをかぎながら判断をしている。それでつい、顔やからだを見る。顔、身体、骨格、から判断をする。職業は体型に出る。日焼けが、上半身全部と言う人もいる。腕からのひと。手先だけの人。もちろん、マッ白のうら成りのインテリ風もいる。

気掛かりになるのは、身体と顔の繋がらない人だ。身体に気をつけて下さいよ、と声を掛けたくなる。顔は修験者のようであり、身体は放蕩三昧。顔は裁判官のようであり、身体が漁師さんと言う不思議な人もいる。身体を動かしているな、という体相で、そういう顔相が乗っかっていると実に良い。当然骨相もそうなる。3拍子なら言う事がない。三相が揃うと見ていて実に安心。多分、化学肥料も、農薬も使わない。有機栽培品なのだろう。私のように骨量そのものが、少ないものは、全部が少なければ何となく辻褄があうが、根の方が駄目なのだろう。底辺でのバランス。身体と言うのは、鍛えられる。顔と言うのも実は同じ。鍛えた体というものが、良いとだけでは見られないように、鍛え上げられた顔と言うのも困る。結局三相に表れているのは、その奥に宿る、気持ちの方になる。痩せたソクラテスの顔を見てみたい。

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