溜め池の栓を抜く

舟原溜め池には木の栓がある。久野々里山を守る会の仲間の広川さんが作ってくれた。その栓を11月30日に抜いた。抜いてくれたのは渡部さんだ。栓をしたのはまだ、小田原に居た頃だから、7,8年前のことになる。これを抜くのは相当に困難だった。
溜め池の栓を抜いたのは、溜め池を乾かして、一度ユンボで土上げをするためである。土上げはなかなか難しい。最近小田原では、過去にない時間雨量100mを越える豪雨が何度も降った。そのために山で土砂崩れが起き、大量の泥水が、舟原溜め池に流れ込む。
溜め池は崩壊はしないが、排水が追いつかず、脇にある川への排水関を通り、泥水を流し続けた。2度3度と繰り返す豪雨で、泥水と一緒に来た土砂が溜め池を半分埋めてしまったのだ。水面が半分になってしまった。このままでは溜め池がダメになる。
本来であれば、一年に一度は溜め池の栓を抜いて、泥水を下流に押し流すべきなものだろう。ところが、泥水を川に流すことは、海を赤土で汚すことになる。それも出来ないために、何とか溜め池に赤土を溜めて、泥上げしなければならない。
昔であればこの肥料分も多い、良い土壌は農家の方が利用していたのだろう。そんな手間がある農家はいまはない。結局ユンボで土上げして、池を一回り小さくしてしのぐ他ない。しかしこの工事はかなり困難でもある。溜め池を以前整備したときも、溜め池が泥沼化していて、ユンボが動くことが困難だった。
今回2台のユンボを用いて、何とか泥上げをしようという計画である。2台あれば、一段が動けないユンボを引っ張ることが出来る。まず、11月に溜め池の栓を抜く。ある程度乾いた12月に溜め池の中に排水路を掘る。その前に溜め池にある、カキツバタをすべて抜き去って置かなければならない。
家の方で冬の間カキツバタを保存しておかなければならない。予定では12月19日がカキツバタを掘り起こし、一時避難させる作業日。20日がユンボで排水路を整備する日。来年になり、3月の27日28日に土上げ作業を行う。業者の方が、そのときに来れるかどうかが問題になっている。年度末で忙しくて難しいらしい。
溜め池の大がかりの整備は、今回が私がやれる最後のことだと思っている。25年くらい前に小田原に移り、それ以来関わってきた舟原溜め池である。何とか、整備が進んでは来たのだが、舟原溜め池に通えるのも、あと何年あるか微妙になってきた。自分としては動ける間続けたいのだが、動ける間が短くなっている。
それまでに舟原溜め池がカキツバタの池になっていることが願いである。カキツバタの池になれば、誰かが保全してくれるのではないかと、願っている。それも危ういとは思うが、できる精一杯のことである。何故舟原溜め池の整備を続けているかの理由である。
舟原溜め池は江戸初期の舟原地区に、多くの人が住み始めた時に作られたものである。そして田んぼが広がり、久野が江戸へのエネルギー供給地として、栄えることになった。その初期の記念碑的な農業遺構なのだ。IT社会での暮らしを見直すためには残す必要がある。
田んぼがなければ、沢山の人は住めなかった。瑞穂の国日本はお米が経済の基本となっていった。欠ノ上に田んぼを作るために水路を天子台の山の下にトンネルまで掘って、水を確保した。久野川上流部に溜め池を作った。その最後に残された農業遺構が舟原溜め池である。そうした調査をした方が坊所におられたのだが、その資料はどうなったのだろうか。
と言ってもそんなことはどうでも良いというのが、今の社会である。それは分かっている。小田原城は保全されても、農業遺構など無視される。しかし、武士の歴史よりも、百姓の歴史の方がこれからは重要なはずだ。人間の暮らしが見えなくなって来ているいま、人間がどのように暮らしてきたのかを形で残す意味がある。
保存の目的も確かにある。もう一つ私自身にとって重要なものが「掃除」の修行である。曹洞宗では何よりも大切な修行は「作務」である。作務の第一が掃除である。すべてが掃除と言って良いくらい毎日掃除をする。ごみがあるなしにかかわらず、掃き掃除、拭き掃除を行う。
頼岳寺の三沢老師から教えられたのは、掃除である。老師がおられる部屋の前の掃き掃除をみんなでしていたとき、石がゴロゴロとしている。と言われた。何のことかまるで分からなかった。沢山の丸い石が掃除をしている。それで良いと言われた。そのときには分からなかったが今は分かる。
道元禅師にたいし、祖師に対して失礼な疑念であるが、只管打坐では掃除をする間がない。乞食禅の私には、座禅よりも掃除行である。生きると言うことでは、作務の方が重い。自給自足の禅寺であれば、生まれた向昌院はそういうお寺であった。日々の農作業が作務である。草取り掃除はもちろん重要な作務である。
そうしなければ生きて行けない。生きていけなければ座禅の行もない。そんなことには意に関せずの道元禅師であれば別ではあるが。祖父は自給自足の暮らしであった。舟原溜め池は私の掃除行であったのだ。溜め池はゴミ捨て場になっていた。ここを掃除し、美しい場所にするのが、私の修行の場であり、作務の行だと考えるようになった。
三業を調える。と言う仏教の言葉がある。「身業・口業・意業」の教え。身体の「身業」、言葉の「口業」、心の「意業」のことであり、美しくふるまえば、言葉は美しくなる。そして、「行動をただす。言動をわきまえる。思考を深くする」と解釈している。
その実践の行が掃除の作務である。自給農業は私の作務である。同時に溜め池の掃除は重要な作務である。本堂の掃除など繰り返したところでたいしたことではない。意味のある溜め池の掃除こそ、私の行であると考える。これは、確かに何か結果を求める考えである。そうでなければ頑張れない乞食禅の人間なのだ。それで良いと考えて生きてきた。
人のために舟原溜め池を整備しているわけではない。自分の生きる行としてやらざるえないという思いである。これがやりきれないようでは、自分流の行の行方が危うい。そうこんな風にあれこれ理屈がなければ、動けない人間なのだろう。
そして、今回溜め池の栓を抜いた。実際に抜いてくれたのは渡部さんである。渡部さんはまさに行の人だ。私のように理屈人間ではない。どうすれば栓が抜けるかを考える実力がある。渡部さんが抜いたのは、溜め池の栓だけではないはずだ。人間の栓にも、溜め池の底の栓には圧力がかかっている。簡単には抜けない。
ここの栓をしたのは私である。これでは後で抜けないだろうと言われた記憶がある。だいたい大雑把な人間で栓をしなければならないと言うことに必死で、後で栓を抜くときにどうするのか、底まで思いを巡らすどころではなかった。愚かものそのものである。勢いで突っ走って栓をしてしまった。
栓に鎖を付けなければダメだった。迂闊なことだが、あのときは溜め池に水が溜まるようにすることで必死で、後のことまで考えて居なかった。水漏れがあちこちにあって、水漏れを塞ぐことで必死だった。一つ水漏れを塞ぐと、次の漏れが見つかりの繰り返しで、大変だった。
やっと栓をして、一息ほっと出来たのだ。水さえたまれば良いと考えて、生来水を落とすことを忘れていた。私の不始末を渡部さんが補ってくれた。今回栓が抜けなければ、溜め池のかい掘りは、土上げは、手が付けられない危機であった。何とか危機をくぐり抜けた。
これで、何とか12月19日にカキツバタを堀り上げが出来る。カキツバタを堀あげて、今度3月になって植え直せば、上の溜め池はカキツバタが全面に広がるはずだ。今年の5月は見事なことだろう。もし花が咲いたならば、溜め池祭りが開きたいものだ。
芋煮会でもやって、舟原の皆さんを招待したいものだ。舟原にこんなに素晴しい場所があることを知ってもらう機会にしたいものだ。里地里山協議会の活動としてやって貰うのが良いのではないだろうか。次に小田原に行ったときには先々まで詰めたいと思う。