燃料の変化
ギンネムという木が好きだ。こう言うと環境派から嫌われる。ギンネムは侵略的外来植物とされているからだ。嫌われているような木があっていいものだろうか。可哀想で成らない。ギンネムは好きで石垣島まで来たのでは無い。あえて、明治時代に連れてこられた異人さんだ。いわば御雇外国人である。時代が変わりお役御免になり、今度は日本人ファーストである。
ギンネムの花は白いぼんぼりのようなでなかなかいいものだ。銀色のネムノキと言うことだ。昔美智子妃殿下は、その昔ネムノキの子守歌を天皇のために作られた。葉もネムノキのようで、すがすがしい。その上マメ科植物で根には根粒菌が寄生して、土壌を豊かなものにする。樹木は成長が早い割に、堅木で良い炭にも成りそうな木である。その葉は牛やヤギの餌にもされてきた。
ギンネムの木は明治時代に沖縄に有用植物として導入された樹木だ。高知県出身の国頭農学校の校長先生が、明治末年に選んで入れたとされている。沖縄県立農学校校長・黒岩恒(1858-1930)と言う方が、普及したのでは無いかという資料が以前あった。
黒岩恒氏は、明治から大正にかけて、沖縄の製糖業に大きく貢献している。しかしギンネム普及の記録は最近見つからなくなった。何か誤解だったのだろうか。誰が普及したかは別に、正しい判断だったと私には思える。ギンネムは成長が早い。三,四年もすると、大きな樹木になり、枝を切れば燃料になった。
ギンネムが侵略的と言うことも実は怪しい。種子散布能力が低いことや、生育に明るい環境が必要なことから、侵入を特に促すような撹乱がなければ、在来の森林内へはほとんど侵入できない。そのため、ギンネム林が成立するのは主に人為的な撹乱を受けた場所に限られている。とされている。
この燃料が家の近くにあるという状態は、暮らしを楽にした。足柄地方のザレ歌に、「嫁にやるなら、山田が2番。内山暮らしは極楽暮らし、どこの庭にも薪がある。」と言われている。燃料を集めると言うことが、嫁泣かせだというのだ。江戸のエネルギー源は関東一円の広大な里山だったのだ。
水牛をみていると、ギンネムは大好物である。5㎝くらいになったギンネムの木を押し倒しては食べてしまう。ギンネムは毒があり資料にならないという人が良くいるが、俗説である。水牛には良い餌でどくどころでは無い。そもそも家畜の飼料として導入された木なのだ。葉には毒は無い。毒は実にある。
情報に踊らされる人は、ネット情報で毒があると描かれていると、それを安易に信じてしまう。実際に毒があるかを自分の目で確かめると言うことが無い。情報化社会とは、体験が軽くみられる安易な世界のことだ。自給生活には自分の目で確かめるという、しっかりした視点が無ければならない。
食べると毛が抜けるなどと言うが、水牛はどれほど食べても毛が抜けたことは無い。あらゆる意味でギンネムは有用な植物であったのだ。特に、離島の燃料材としては、素晴らしい樹木であった。夜になると葉を閉じて眠る。3年で10mにもなるというのだ。こんな素晴らしい植物を駆除しなければならない理由があるのだろうか。
子供の頃の山梨の境川の藤垈山寺では、すべての燃料が薪であった。まだプロパンガスも無い時代である。一年の燃料を木を切り、薪小屋に一杯にするのが暮れの仕事だった。冬休みに入ると12月20日からの10日間の欠かせない仕事だった。28日までに何とか終わらせなければならないと、正月が来ないというので、朝から晩まで蒔き造りを行う。木護屋が溢れて見えなくなるほど積み上げなければ、一年の燃料には足りないのだ。
山の一番奥にあった向昌院に続く裏山が、10カ所ぐらいに区分けされていて、薪山とされていた。順番に切って行き、10年するとまた元に戻るわけだ。上手く脇目が芽生えるように木を切るのだ。木株は何十年も切られて、かぶつになったコナラやクヌギは繰り返し再生され、利用されていた。
この燃料が家の近くにあるという状態は、暮らしをずいぶんと楽にした。足柄地方のザレ歌に、「嫁にやるなら、山田が2番。内山暮らしは極楽暮らし、どこの庭にも薪がある。」と言われている。燃料を集めると言うことが、どれほど嫁泣かせか、というのだ。江戸のエネルギー源は関東一円の広大な里山だったのだ。
水牛をみていると、ギンネムは大好物である。5㎝くらいになったギンネムの木を押し倒しては食べてしまう。ギンネムは毒があり資料にならないという人が良くいるが、俗説である。反芻動物は特別の酵素が体内にある。反芻しながら消火できるものにしている。ギンネムは良い餌で毒どころでは無い。そもそも家畜の飼料として導入された木なのだ。
食べると毛が抜けるなどと言うが、水牛はどれほど食べても毛が抜けたことは無い。下痢もしない。あらゆる意味でギンネムは有用な植物であったのだ。特に、離島の燃料材としては、素晴らしい樹木であった。夜になると葉を閉じて眠る。3年で10mにもなるというのだ。こんな素晴らしい植物を駆除しなければならない理由があるのだろうか。
切り倒したら、長いまま山の下にひきづり下ろして行く。このときに前に買った木の出てきている新しい樹木を傷めないように下ろす。切り倒す係と、ひきづり降ろす係とに分かれて、毎日同じ作業を繰り返して行く。年末までには木の引き出しを終わらせるのが恒例のことだった。
そして正月が明けたならば、薪割りに入る。長さを50センチくらいにそろえて、薪を割れる丸太にする。これも、のこぎりで50センチにして行く人と、斧で薪割りをして行く人とに分かれる。人が多ければ、薪割りを2人で行うこともあった。子供はそだ木を集める仕事が割り当てられる。枝を2m位の長さにそろえて、大きな束にして行く。燃やしやすいので、薪とは別に枝の束が必要だったのだ。
100年前までは燃料を自給するのが、世界中で当たり前の暮らしだった。石炭石油というエネルギー革命が起きたのだ。そして原子力が夢のエネルギーとして登場したのだ。こうして暮らしが変わってきたのだ。確かに便利で楽な社会になった。しかし、本当に良かったことなのかと思う。
自給エネルギーの時代に戻れば、ギンネムを排除する人など居るはずがない。美しいギンネムという木を、醜い木としか見れないような歪んだ知識により眼が曇る人は居なくなる。自給生活者は自分の目を持たなければならない。人の言説にながらされないで、体験に基づき、自分の目ですべてを見直す気持ちで暮らすことだ。
イネのひこばえ栽培も、いろいろ聞いていると沖縄では昔からやっている人が居たと言うことである。そうした記憶も薄れかけているが、八重山の島々でイネ作りをしていれば、ひこばえ栽培に気がつかないはずが無い。もしかしたら1期作は年貢に上納して、その後のひこばえで自分たちの食料を育てたのかもしれない。
だから人頭税時代には、あえて隠されてきたイネの栽培方法だったのかもしれない。自給の暮らしを模索すると、昔の人たちの暮らしの深さに行き当たる。昔の方が人間に知恵が満ちていた。ギンネムを侵略的として、排除するような狭い環境派の頭でっかちは、自給生活に入らないものだ。
この100年間に、ギンネムによって失われた環境が、本当にあったのかどうか。科学的に証明してからの主張にして貰いたい。そうした検証が無いままに、駆除まで進められている。後100年後に、何が正しいことだったかは、証明されるはずである。江戸時代の渡来植物は日本の環境をむしろ豊かにしているではないか。