漠然とした不安
2025/10/02
2回目のペチベルも根付いた。
漠然とした不安にとりつかれている社会である。南海トラフ地震は何時起こってもおかしくない。こんなことが日常に言われていて、不安にならない人が居るだろうか。明日にもあるかも分からない、大地震と大津波の仮想映像が、警告として日常的に流されている。何時大災害に巻き込まれルカも分からない社会。
悲惨な大戦争も何時終わるとも分からないまま、何年にもわたって続いている。日本も過去最悪の危険な国防状態と防衛白書では示された。仮想敵国中国は明日にでも台湾侵攻を始めると政府が警告をする。軍事費が倍増されるという。北京まで届く中距離ミサイルの配備を始めている。
何時までも繰り返えされる新たに生まれる感染症。マスクなしには暮らせない社会。訳の分からない新しい病気をもたらす害虫が広がって行く。かつて無いほど熊が増加して、人が普通に暮らす住宅地域に出現する。襲われて重症の人も居れば、殺害され食べられてしまう人まで居る。
そして自分の将来を考えれば、コンピュター革命が社会を大きく変えて行き、どのように自分の未来を考えれば良いかも見えてこない。若者にとっては、希望に燃えた夢のような未来が待っているはずが、不安だらけの未来しか待っていないかのようにみえる。
政府は所得向上をいいながらも、実質的には所得の目減りが続いている。今日よりも明日の方が生活は苦しくなるという社会。同盟国アメリカからは、理不尽な関税の値上げを言われて、結局のところ受け入れる以外に選択の道も無い。こんな社会の状況で、安心して暮らせる人は幸運な少数派と言うことになる。
社会は階層化が一日一日進んでいて、貧困層の固定化が起きている。生活に苦しい人は抜け出すことがどんどん難しくなっているのだろう。一方でごく少数の富裕層が誕生しているらしい気配がする。上級国民と呼ばれる別格の人だけが優遇されている気配がする社会。
だれもが努力して頑張れば、何とかなるという社会ではもう無いらしい。能力主義が当然のこととなり、能力で差別されることは仕方が無いことと、知らないあいだに受け入れさせられている。戦後の自由主義社会の理想はことごとく崩れて行く。
小学校の教科には英語教育が導入され、国際ビジネスマンになる教育が推奨される。金融の教科が小学校で行われ、不労所得を公然の正義として行うべきものとされた社会。日本人として生きる基本となる、作務教育や国語教育がおろそかにされる学校教育のビジネススクール化。
日本はかつて無いほどに、不安感の広がる社会である。しかし、この不安感の広がりは現実を反映していないのではないか。大災害が起こることは、歴史上も繰り返しあった。戦争も、感染症も、不景気も、繰り返し起きてきたことである。その中で安心立命をどうすれば見つけられるかである。
漠然とした不安が広がる社会の中で、一番顕著な結果が、人口減少である。人口減少も不安材料の一つとされている。労働人口が減少するから、経済が下降する。それなら外国人労働者に来て貰わなければ、社会が維持できない。特に肉体労働をやろうという日本人がいなくなってきている。
今度は外国人が犯罪を犯したという、ニュースが頻繁に流される。外国人のすべてが不安要素のように言われる。ところが日本の社会がすでに、外国人が助けてくれなければ維持できない状態にある。まさに恩を仇で返すような仕打ちである。どんな気持ちで日本人ファーストを聞いているかと思うと悲しくなる。
人口減少に対応した日本社会を模索せず、海外から労働力を入れるという対処療法しか思い浮かばない社会が問題なのだ。社会が硬直化していて、柔軟に新しい状況に対応できない。労働力不足であるなら、どうすれば省力化すればいいかを模索しなければならない。
バスの運転手さんが居なくなったので、バス路線が廃止になる。確かに困ることだが、どうすればバスに変わる手段が出来ないかを考え無ければならないはずだ。外国人労働者を考えるのでは無く、移動手段をバスから他の方法に変えるべきでは無いのか。