藤井将棋について

      2025/08/16

 

子供の頃から、囲碁も将棋も指した。親は囲碁将棋はやっては行けないことにしていた。父が勝負事が極端に嫌いだったからだ。たぶん嫌いなだけでは無く、勝負事は悪い儒教的に考えて居たのだと思う。だから隠れて将棋も囲碁も指した悪い子だった。ベイゴマもメンコにもはまった。親は困ったことだろう。申し訳ない。

向昌院の住職の祖父はお寺で碁の集まりを開くほど、碁が好きだった。だから、母の兄弟はみんな囲碁も将棋もやる。親の影響のために、勝負事をやる僧侶をおかしいのでは無いかと思っていた。自分が勝負事にはまっていることに罪悪感が強かったから、余計にそう考えていた。ダメだと言われたから余計にはまったのかもしれない。

囲碁や将棋をやると頭がよくなるという考え方があるが、それは将棋連盟の広告なのだが、違うと思う。私は頭は良くならなかったので何となく分かる。ゲーム脳は少し頭が良いとは違う物だ。ベイゴマ作りの方で自分の工夫能力をいくらか高めたと思う。頭のよい子にするために将棋を習わすなど無駄だと思う。

小学生の頃も絵を描いていた。○○コンクールにだすから絵を描いて来いと、小学校の美術の根津先生に何回か言われた。ところが、どう言う物がコンクールでは良い絵なのかがまるで分からない。東京ガスのコンクールで、ガス風呂を描いたことを覚えている。

なんか小賢しい情けない子供である。向昌院では蒔き風呂担当だったからだと思う。これは絵では無いだろう。が賞を貰ったような記憶がある。絵を描くことに熱中していたことは確かだが、絵を描くという行為自体は好きであったのだが、絵が少しも分かっていたわけでは無い。

囲碁も将棋も絵も、何にでも子供の頃から熱中した。結局勉強以外のことに、はまっていた。特に将棋は友達に将棋好きが居たので、たぶん何千回も指した。二人で銭湯に行き、お風呂の中で頭の中で将棋を指したことが、あったくらい好きだったのだ。棋譜で二人で指していたら、突然、その手はダメだと、知らないおじさんに言われた。

その友人の上野君は、後に私のいとこと結婚したぐらい、親しく付き合って来たが、昨年亡くなってしまった。年に一度くらいは旅行に行って将棋を指したこともあった。二人で将棋道場というところにも出かけた。二人で昇段の競争をした。私は将棋世界の応募で5段にまで成った。

今は将棋は指さない。あるとき渋谷の竜王という将棋クラブで、将棋を指していたときに、相手が待ったをした。5段の人が待ったをするのはさすがにおかしい、と私は考えて、相手にそう言った。すると相手は、遊びの将棋クラブでお前みたいなことを言う奴は問題だと言われた。

そして道場の主に判断して貰おうと言うことになった。何と道場の主は、元奨励会員さんであったが、こう言う遊びの場所では、そこまで厳密なことは無しだという判断だった。なるほど棋士にはなれなかったはずだ。常連さんを大事にしたと言うことだろう。それで将棋のすべてが面白くなくなった。真剣にやるからお遊びも面白いのだ。

それ以来人間と将棋を指すことは辞めた。良い止める機会と考えたからだ。突然思い出したが、フランスにいたときには囲碁の指導をした。囲碁大会を開催して、新聞に掲載もされたのだ。突然思い出したが、完全に忘れていた。決勝戦の棋譜を思い出して書くことが、私にだけが出来た為新聞に出た。

何故囲碁や将棋のことを書き出したかというと、藤井将棋の将棋があまりに面白いからだ。と同時他の人の将棋がつまらなく見えてきた。今年に入って、藤井聡太7冠は10勝1敗である。これはプロの将棋指しでもかつて無かったことである。大山名人は別格に強かったが、これほどの勝率では無かった。つまり藤井将棋は未だかつて無い将棋なのだ。

それはもちろん、コンピュター将棋ソフトの出現によって将棋が変わったと言うことによる。コンピュターという圧倒的な強者の登場があったために、藤井聡太氏が登場したのだ。一言で言えば、将棋は記憶力競技になったと言える。コンピュター並みに棋譜を記憶した者が強い。まあそれが常人には無理なことなのだ。

以前の将棋には定石と言われた将棋の出だしがあった。この不完全さを突き破ったのが羽生将棋だったと思う。定石だからと、安易にその棋譜にしたがっていると思わぬどんでん返しになる。その鮮やかな逆転劇が羽生マジックと呼ばれた。羽生将棋は定石という思い込みを、人間の頭脳で洗い直した。

この定石洗い直しにはコンピュター的な読みがあった。だから羽生永世7冠は遠からずコンピュターが人間を追い越すと、最初に発言をされた。そしてコンピュターソフトの開発にも協力もした。人間とコンピューターの関係について、電通大で講演会があり、聞きに行った。将棋と人工頭脳の関係にはそれほど興味があった。

その時代はコンピュターに人間が負けるようになれば、将棋のプロはいなくなるだろうと言われていた。ところがそうではなかった。藤井聡太7冠の登場で、むしろ将棋が見直されている。新しい将棋会館が次々に出来ているほど、将棋はコンピュターソフト時代の中で盛んなのだ。

新聞社がかつては日本の文化として後援することで、囲碁将棋は維持をされていた。ところが新聞という物がそれこそ、コンピュターの出現で斜陽的な分野になった。そこでスポンサーから降りる傾向である。囲碁の方ではその影響が直撃されている。2日制のタイトル戦が一日に成る。7番勝負が5番勝負になる。

将棋も同じ波を受けているのだろうが、今の所、新聞社に変わる新しいスポンサーが現われている。おーいお茶の伊藤園やお菓子の不二家やALSOK、などだ。ヒューリックが新しいスポンサーになり、女流棋士タイトル戦を男性棋戦と同等の5000万円の優勝賞金を提供した。

何故なのか将棋では女性のプロ棋士はいない。居るのは女流棋士なのだ。女流棋士も相当に強いのではあるが、プロになる壁はまだ破れていない。その代わりというか、女流棋士から、女子アナになる人や、アイドルだった人が棋士になる。などという現象が起きている。つまるところ、女流棋士は人気は高い職業なのだろう。

なかなか書こうとした藤井将棋の内容のことまで、文章が行かないのだが、藤井将棋だけが私には面白いと言うことになってしまった。藤井ファーンだから藤井将棋が面白いというのもあるのだが、藤井の将棋を見ながらコンピュターソフトの予測も見ている。この面白さが他の人の将棋と比べるとダントツである。

他の人の場合は、信頼度が低い。だからコンピュターと違う手を指したときに、間違ったのかと見てしまう。ところが藤井7冠の場合はそういう人間的な判断の手があるのかと見ることになる。コンピュターの読みには、人間なら何度も間違うだろう危うい読み筋が普通にある。

確かにその読みで勝ち筋なのだろうが、そんな読みは人間には出来ない。と言うことがままある。確かに一直線の早い勝ち筋かも知れないが、もう少し遠回りであっても、安全に勝てる筋を人間は選んだ方が良い。人間らしい判断というものがここに現われる。この辺のバランスが見ていて面白い。

人間が生きるというのは、一直線では無い。遠回りでも確かな道を選択するのが普通であろう。その意味で藤井将棋の指し手の選択も、人間らしい手順で、コンピュターソフトを越えることがままある。その手を見ていて、感銘を受ける。こう言う考え方を出来る人が居るのかと、驚いてしまう。

特に藤井7冠対永瀬9段戦は面白い。両者が強いために、指し手も何度見ても驚くべき場面を繰り返して行く。人間同士の究極の戦いを見ている気がする。永瀬9段が負けることが多いのだが、同じ負ける将棋でも将棋の真理への迫り方は他の人とは違う。永瀬9段が強いために負けるという気がするほどの将棋になる。

この二人の勝負を見ていると、将棋を指したことがあって良かったと思う。この二人の戦いの面白さを味わえるためには、一定のレベルで無ければ面白さがわかりにくいと思う。今度、王座戦決勝戦で、伊藤匠叡王が羽生善治九段に勝って、藤井聡太 七冠への挑戦することになった。この戦いも面白くなるだろう。

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