世界は食糧危機が来る

世界の食料価格が急上昇している。国連が3日発表した5月の食料価格指数は1年前から4割上昇し、2011年9月以来約10年ぶりの高水準となった。中国の旺盛な需要や、天候不順による供給減少が背景にある。企業の値上げもじわりと広がり、景気への影響が懸念される。--日本経済新聞
世界中でコロナ感染が広がった中、食糧価格が上昇している。一年で40%も上がったというのだから、深刻なことである。こうしたことは今後も繰り返され、最終的には必要な分の輸入が困難な時代が来るとしなければならない。
中国の食糧輸入の増加と気候の不安定化もあるが、それ以上の理由は世界の人口増加である。地球の人口は私の生まれた1949年が25億人だったものが、2000年には60億人。そして2050年の予測では97億人とされている。一生の間に世界の人口が3倍になる稀有な体験をしたわけだ。
地球の耕地面積はすでに限界に達している中で、人口は今も刻々驚くほど増えている。このことを深刻に考えなければならない。この話をしたら、30年前も同じことを言う人がいたが、いまだに食糧危機は来ないと言われる人がいた。確かにその通りだが、そのいよいよの時が近づいているとと考えて間違えがない。
これ以上の環境破壊しての農耕地の造成は出来ないだろう。収奪的農業で農地の永続性が危ぶまれている。気候変動の結果砂漠化する農地も増加している。そこに人口増加が進んでいる。食糧危機は必ず来るが、いつ来るかだけが問題なのだ。
日本の人口が減少傾向になったのは生物としての危機反応と見た方がいい。先進国の多くが人口減少をしている。世界人口は今の4分の1まで減少しなければ、永続性のある地球は取り戻せないだろう。幸いにも日本人は危機を察して人口減少をしている。
ところが日本政府は相変らず人口増加を目指している。経済競争の為の間違った政策である。労働人口の減少を企業は競争力の低下と考えているに過ぎない。経済競争に勝つ為だけの人口増加は最終的には地球の崩壊につながる。
世界全体が平等に食料を分配すれば、今の時点では足りない訳ではない。ところが日本で起きている食料廃棄物の総量は2000万トン。これは途上国の5000万人分の食糧にあたる。無駄に廃棄している国もあれば、飢餓で死んでゆく人子供たちが毎年1000万人近く存在するのが世界である。
考えるほどに悲しくなる現実がある。日本では主食のお米が余るので、換金作物に変えることが奨励されている。特に国際競争力のある農産物17品目への転換が進められている。そして、そうした政策の結果として、日本の食糧自給率が一向に上がらない状況がある。国が自ら掲げた政策を裏切っている。
バイオエネルギーを農業で生産したところで、飢餓はさらに増加してゆく。どの国家も国家単位での食糧自給の達成が、基本的な国の基盤として、求められている。日本が経済的に有利だからと言って、主食食料の生産をやめ、輸入に頼ることは国の安全保障上間違った政策である。そんなバカげた先進国は他にはないのだ。そうかもう先進国ではないのか。
自動車を販売して、食糧を輸入するという事は経済としての合理性は当面はあるだろう。しかし、日本の国土を荒廃させ、日本の文化を変貌させてゆくことになる。日本人という塊が出来上がるためには何千年かのイネとともにある暮らしが大きく影響した。日本人の故郷の映像は、田んぼの赤とんぼである。
田んぼなどなくなっても、工場で自動車を作っていればいいんだとはいかないのが、その国の文化という物だ。日本人が日本人になった暮らしぶりは、すでに失われつつある。そのことは致し方ない一面もあるのだろうが、日本人の特性を考えるときに、失ってしまうにはあまりに惜しい稲作に基づく文化である。
日本人は田んぼで生まれたと考えているほどである。民族は主食を作るという事から成立してくると言ってもいい。つい何世代か前まではイネ作りをしている人が日本人の大多数だったのだ。日本人が産業革命を取り入れ、いち早く先進国に追いついた理由の一つには稲作で培われた日本人の観察力が作用している。
後進国化した日本人が再生してやり直すためには、もう一度主食の生産を考えてみる必要がある。主食を作る文化が日本人の感性の細やかさを作り出した。共同作業とか、思いやりとか、もったいない文化とを生み出してきたのだ。それを失えば日本は再生できないだろう。
と言っても国全体は資本主義経済の末期状態に巻き込まれ、正しい方角を取り戻すことはできないだろう。だからこそ、一人一人が次の時代を生きるために、自給の為のイネ作りに取り組むべきだと考えている。
それは大抵の人に可能なものだ。週一回食糧生産に充てれば、食糧の自給は可能である。それは毎日1時間の農作業で食糧自給が出来るという事である。これは私自身が30年の体験をキロした結果出てきた数字である。面積は一人100坪である。
現在の放棄農地の状態や中山間地の消滅してゆく村落の状況を考えれば、かなりの人が挑戦可能な暮らし方ではないだろうか。残念なことであるが、誰にでもできるとまでは言えない。植物に対する感が働かないと無理である。
体力はなくてもできる。71歳の私が今でもまだ可能なものだ。今日は田んぼのコロガシをやるつもりだ。一番必要なことは観察力である。植物を見る眼である。植物を感じる力である。的確な植物に対する状況判断が出来れば、イネ作りは可能だ。多くの農業希望者を見てきた結果からすると、2人に一人ぐらいの人が出来る人のようだ。
もう一つのことだが、この自給の食糧生産は能力主義であってはならない。共存共栄の助け合う農業である。自分さえ良ければ他の人のことは構わないというのでは、田んぼは成り立たないものだ。回りの人に配慮が出来る人に成らなければ、稲作は出来ない。このことも忘れてもらいたくない。