途中までの絵の続きを描いている。

   



 絵は分からなくなったらば、そこで描くことを止めることが良いと考えてきた。分からないなりに、絵に仕上げないと勉強にならないと言う考えの人もいるが、それはよほど初心の時代の話ではないだろうか。
 ある程度絵を描いてきた人が、絵の行き先が分からないままに描くと、絵をでっち上げることになりかねない。でっち上げるとは人の絵の情報に従い絵を作ると言うことだ。確かに手っ取り早く絵に見えるようになるが、これはすごく嫌なことだ。

 絵が一見出来たところで、私絵画の世界では「私とは何かの意味」が存在しないのでは無意味なことになる。この考え方は水彩を始めた、30年前から、今でも少しも変わりはない。だから、途中までの絵が何百枚もある。嫌になるほどある。死ぬまでにはその先を見つけてせめて、その絵の結論だけは描きたいと思っている。それが絵になるかどうかは別であるが。

 ときには途中で止めた絵が宝の山のように見えるのだが。その時はそこまでしか描けなかった絵である。そういう中途の絵の山を時々見返す。どこで描いたのか、描いた時間から心境まで思い出す絵がある。全くどこで描いたのか分からない、自分が描いた絵とはとうてい思えないものも出てくる。

 すると、この先が描けると確信的に思える絵が出てくる。それをしばらくギャラリーに飾っておく。やる気がふつふつと湧いてくる。おおよそ方向が整理できたところで、この絵の先を描くならこの場所という所に出かけて行き、続きを描く。

 絵は構成が終わった段階以降は、写生してその場所を写すようなことはないから。どこで描いてもいいようなものなのだ。家で描くことも出来るかというと、どうも私には出来ない。自然の空間は見ていないと描けない。果たして何を見ているのかはっきりはしないが、確かに外を見ては描いている。

 絵は何が分からなくてここで止めたのかを教えてくれる。たいていの場合は技術の限界で立ち止まった物が多い。例えば限界まで薄塗りで描き進めていて、とつぜん先が分からなくなっている絵がある。これ以上描く技術がないから、やれば思いとは違うところに進むことが分かって止めたのだろう。

 昔は色彩の美しさにこだわりが強くあった。汚くなるのが嫌で途中で止めたのだろう。こうした水彩画の人は多いと思う。だから水彩画は絵画にならないで、スケッチで終わっている物が大半である。薄い塗りでの表現する方法を私の習得の幅が狭かった為に、その先が分からなかったと言うことだ。薄塗りの多様性が分かってくると、様々なこの先が見えてくる。

 一方、とことん重ね塗りをしながら描き進めていた絵が、止まっていることもある。これも元に戻す技術的な幅が狭いために、先が見えなかったと思われる。技術的な幅が広がると、その先どう描けばどうなるという広がりが出てくる。そのためにその先のやるべき仕事がとつぜん見えるようだ。水彩画の技術的な奥行は実に深い。

 実はもう一度描き始めると又描くことが分からなくなることも多い。問題は技術的なことで、何を描くのかが不明瞭なのだ。そこで止めて又しまっておく。描きかけの絵は基本捨てない。絵は終わって結論が出ているのだがつまらない物は。そんな絵は捨てる。

 こんな描き方はある意味純粋性に欠けるような、インチキ臭いような描き方とも言えるのだろう。が、別段人のために描いているのでは無いので、自分が進める可能性があることなら、何でもやってみるつもりでやっている。

 ただ一つ原則はある。「この絵は何のために描いているのか」という原点である。私は金沢大学の美術研究室に所属して、卒業制作は陶板で1830センチの正方形の作品を作った。重いので2枚のパネルを組み合わせた物だった。

 指導してくださったのは、九谷焼の重鎮で後に金沢工芸大学の学長をされた、若き北出不二雄先生である。何故油彩とか、彫刻ではなく、陶芸作品を卒業制作に選んだかと言えば、北出先生が作家として尊敬できたからである。学ぶなら、本物の作家から学びたいと思ったからだ。

 いろいろの意味で、回りの方から助けられた卒業制作であったのだが、北出先生は「何が表現したいのか言ってみろ。」これだけを繰返し言われた。進め方についての指導という物はなかった。北出先生との1対1の指導の下、すべて自由に制作させていただけたのだから、こんな幸運な学生は金沢美大にも、他にはいなかったと言うほかない。

 こんな贅沢な指導を大学で受ける事ができた人間は少ないのではないだろうか。北出先生の言われる何が表現したいのか。と言う考えは、いつも先生自身の考えられていることだった。先生は毎年大作を日展に出されていたのだが、その制作の進め方を繰返し話してくれた。

 「何が表現したいか」と言う原点を定めて、それを形にしていく制作の根本を具体的に教えていただいた。しかし私には表現したい何かが、本当のところではその時見えていないのだから、結局理屈での説明しか出来なかった。それではダメだと何度も言われた。

 先生のところにはいろいろの方が、作品を持って尋ねて見える。金沢に来ているときに見ていただこうという、指導を仰いでいる人がたくさんおられたのだと思う。この見える人にも、同じ言葉である。

 「何を表現したいのか。」と聞くのだ。花瓶を持ってきて、何を表現したいのかと問われ。大体の方は答えに窮しながら説明をするのだが、それならこれでは表現できていないと言われることになる。何を表現したいのか突き詰めなさい。具体的なことを言われることはなかった。

 先生の言われる「何をは、」もっとその人の根本に結びついた物でなければ、納得がいかないと言うことなのだろう。赤い色の発色がとか言う人もいる。そんなことはどうでも良いと怒られるだけだった。先生がこれなら良いと言うことは一度もなかった。

 私が作った陶板の作品は「頑張ることは頑張ったな。でも何が表現したいかは見えない。」と言うことが総評だった。一番大事なところがない作品だ。的を得た評価だった。

 ところが、彫刻の米林勝二先生はとても評価してくれた。良い作品だ。卒業制作の歴史のなかでも別格に良いと評価してくださった。その時、私の作品ではなく、北出先生の指導を褒めていたと言うことではないかと感じた。

 私の作品がそれほどの物のはずがない。ただ、何度も何度も言われた、「おまえは何が表現したいのか。」この言葉の大切さが私の中に焼き付いた。絵を描くとすれば、いつも何を表現したいのかを考えるのは当然のことになった。焼き付いたのだが、絵を描いているときに思い出すことはない。おかしいことだが、絵を描いていると何も考えることは出来ない。

 この当然のことを学生の私にとことん教えてくださったことは、今に至るまでかけがえのないことであった。絵を描くときに常に自問自答するところである。おまえは何がやりたくて絵を描いているのだ。今もってよく分からず、答えを探している。

 芸術の指導など出来るはずもない。私が学んだことは北出先生という作家である。卒業するときなんと先生は私に茶碗をくれた。学校で一緒に焼いたものである。先生も長生きはされたのだが、今は亡くなられた。先生の作品はその後いくつか購入した。それを見て、おまえは何を表現したいのかという言葉を聞くようにしている。

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