絵が説明的であることや文学的である事

   


 最近の絵を描いている様子だ。絵の大きさは中判全紙である。少し以前と配置が違っているかも知れない。右側のタオルの上に絵の具を付けた筆は並べておく。筆は八本あるようだが、八色を使い分けるということになる。筆は一日が終わるまで大抵は洗わない。

 この手前に回転式の椅子があって、リクライニングにも成るので、昼寝をしていることもある。お弁当もここで食べる。絵の具を片付けて、絵を見ながら食べている。コーヒーを飲んだり、お茶を飲んだりもしている。気楽に絵の前で一日暮らしている訳だ。

 朝から晩まで車から外に出ない日もある。競べるのはおこがましいが達磨大師が穴の中で座禅修行の面壁8年と言うが、1畳あまりの狭い独房のような場所に数十年座り続けていても、絵を描くというのは少しもあきることが無い。まったく自由な絵という広大な空間の中にいる。有り難いことである。

 絵が説明的である事や文学的であることは近代絵画では良くないこととされている。何故なのか少し考えてみたい。近代絵画では絵画の目的は自己表現と言うことが言われる。自分の内面的な精神世界を、絵画の画面を通して世界に表現する方法が絵画だとされた。

 純粋絵画という言葉がある。純文学と同じで、絵画がそのもので自立していて成立しているという意味なのだろう。何にも依存しないで成立していることが芸術だという考え方による。宗教絵画のように宗教的意味の説明図のようなものではないと言うことになる。肖像画のように、教皇や王侯貴族の飾り物でも無い。

 説明的な絵という意味は誤解されやすい言葉である。言い方を変えればイラスト的な絵ではだめだと批判として使われる。イラストと言うことは、日本語で言えば説明のための絵ということだから、絵画には説明はいらないという近代絵画の考えから来ていることになる。

 ここで言う説明は意味はリンゴであれば、そのリンゴが食べればどんな味がするのか、いかに美味しいとか、香りまで漂ってくるみずみずしい姿を現しているから素晴らしい。リンゴを描いて食べたくなるように描くのが説明的と言うことになる。こんな考えの絵ではだめだというのが近代絵画の考え方なのだ。一般的に言えば少し違和感の成る考えかも知れない。

 美味しそうなリンゴは果物屋さんの看板としては、はまさに説明がよくできていると言うことになるのだろう。しかし、セザンヌのリンゴのようにまるで食べたくは成らない。説明では無いところで絵になっていると言うことなのだ。

 美味しそうなリンゴが上手に描けたところで、自己表現では無いという意味になる。それが対象の説明が絵ではないという意味だ。しかし、今でも美味しそうなリンゴを描きなさいという指導は普通にされている。絵画の指導法などだいたいが間違えである。技術の指導をするほかないからだろう。

 そもそも近代絵画は独学のものである。学校で学んだ人は少ない。技術を学んで絵を描いた人などほとんどいない。自己表現するためには自分の技術を見つけ出さなければならないからだ。他人が開発した技術は却って邪魔になることが多い。

 セザンヌはリンゴを食べ物としてみていない。丸いゴロゴロしたものとみている。その組み合わせの関係性に異常な興味を持っている。どうすれば画面の中の関係を構築できるか。つまり、セザンヌにはリンゴという世間的な意味は画面構成の前ではどうでも良いことになったのだ。様々な事物が上手く並べられることで、自分の世界が構築できると考えたのだ。

 それはセザンヌが自己の内面にある意味に、病的に忠実に従う性癖だったからだろう。興味がそちらに入り込んで行くから、リンゴの一般的な意味はトンで行ってしまったのだろう。だから近代絵画の祖という立場に立つことになったのだ。

 セザンヌの自己は画面の構成に異常な興味があるらしい。ということは分かる。それはいわゆる美しいものでもない。もちろん生生しい物の意味など全くない。ただセザンヌの納得の行く画面の構築だけに目を奪われていると言うことだ。一つのことに明確にこだわると言うことでセザンヌに至る。

 では画面の構築にこだわれば近代絵画かといえるのかといえばそれはまったく違う。それぞれの内面にこだわれという意味だ。表現しなければいられない内面を持つ人が、その内面に従って絵を描けという意味になる。そこから宗教画のような「役割を持つ絵」から解き放たれ、多様な近代絵画が始まる。

 それは近代絵画の結論のような位置に立つマチスのように、色と形の関係性に興味を集中させ、ある意味科学者のように、形と色の関係を模索した人に至る。私には近代絵画はセザンヌに始まり、マチスに至ると見える。その後は芸術としての方向を無くした時代に入る。

 一般的に言えば、商品絵画の時代に入る。絵画で報道されるのは高額で取引されたニュースぐらいである。そしてほとんど社会的な意味は失っているが、芸術としての意味は重要だと言うことで、現代絵画と呼ばれる孤立というか孤高世界がある。

 といって絵を描く人が減ったと言うことでは無く、絵を描く人は絶えること無く増加している。孤高派もいれば、商品絵画を目指す人もいる。私のように人間修行として絵を描いているつもりの人もいる。果たして、私が少数派なのか、同類がいるのかはよく分からない。

 水彩人の仲間でもみんな絵に対する立ち位置は随分違うと思う。違っていて良いのだと思う。だから絵を語る会をやっている。それぞれが自分の絵を語ることで、自己確認するほかないと思うからだ。お互いが良い聞き手になれればそれが一番だろう。

 互評となると、文学的においがするとか、イラスト的では無いかとか。もっとよく見て描けとか、結局一般論がとびかうこになる。結局何か言わなければならなくなれば、そ言うつまらないどうでも良いようなことが出てくる。絵画に一般論など無くなっているにもかかわらずである。

 文学的である事がその人であればそれでいい。イラスト的である事がその人であればそれで大切である。その絵がその人であるかどうかだけが問題なのだろう。その人らしいかどうかも難しいのだが、その人であったら絵がつまらないものになる。その原因はその人がつまらない人であると言う率直な結論になる。

 たいていの場合、人間は他の人にとっては自分よりつまらない人になる。他の人にも立派に見えるようにするために、借りてきたもので絵を飾る。借り物で絵を描くというようなことをすること自体が、いかにもつまらない人がやりそうなことになる。

 宗教画を描くのも良い。肖像画を描くのも良い。現代絵画と呼ばれるものも良い。抽象画も良い。イラスト画も良い。その絵がその人の絵画であれば十分である。問題はその宗教観がどれほどのものであるかの方になる。その宗教観に感銘を受ける人がいるかどうかだ。

 話は文学的という事から始めたのだが、こういうことを考えること自体が、絵画の終わった時代における愚痴のようなものになる。絵画は社会的な意味を失っている。そのことを自覚していないと、恥ずかしいことをしていることになりかねないという自戒である。

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