絵を描くことについて

写生で絵を描いている。絵にしたい場所を見て絵を描いている。それで絵が出来上がることもあるが、たいていの場合、半分くらいのところまでである。この後持ち帰り、アトリエで絵を見ている。見ているうちに気付くことがある。またその絵を描いた場所に持って行き描いて居た。
最近は持って行かないで、アトリエカーの中で描いた風景とは違う風景の中で絵を進める。家のアトリエで描くことはない。閉じた室内の空間では描くことができない。半分野外のような、外の空気の中のアトリエカーの中で描くことができる。
写生で描く場合、絵にしたいと思った場所で描くのだが、大体は長年描いてきた同じ場所である。あたらしい場所で描くことは少ない。石垣島では新しい場所で描いて居るのだが、まだ絵になる場所ということではない。絵が描ける風景は記憶の中に入った風景である。
何故、そこが描きたくなるのかということでは、子供のころ見た甲府盆地の独特の空間の中の記憶なのだろうと考えてきた。最近、それだけではないということに気付いた。単純に絵が描きやすい場所を選んできたということだ。
絵が描きやすいとは、風景がすでに自分の描きたい絵のようになっている場所だ。切り取れば、そのまま絵になるという場所である。それは、目の前に平面として、風景が絵のようになっているところだ。そうした場所はなかなかないのだが、例えば飛行機の上から、見る地表の眺めである。
これは、平面でそのまま絵になる。同じように、目の前に風景がつい立てのようにあれば、それは絵になると感じた。緑の斜面があり、それが面白いと感じるような、色と形のバランスが取れていれば、もう風景がそのまま絵だと感じた。山北ではそういう風景を良く描いた。そんな描き方だとどうしても俯瞰的な見方が多くなるようだ。
しかし、その意味は私にとっては、なぜ衝立のように目の前の正面に平に横たわる風景なら、絵にできると考えたのかは重要だと思える。それはどうも、私が人が作った絵画というものを出発点にしていないからの様なのだ。最近そのことにやっと気づいた。
絵を習うということは過去にある絵を出発点にして、まず絵というものを学び、自分なりの理解をして、絵を描くのだろう。ところが、私の場合、大学時代に過去にあるような絵ではだめだというところから出発した。今あるような絵を描くようなことはくだらないと考えたのだ。小林秀雄氏と岡本太郎氏の影響が強かった。
絵は自己表現である。絵はいまだかつてないものでなくてはならない。こう考えたのだ。そして絵が美術品であることを毛嫌いした。今もその点同じである。商品絵画を嫌悪している。受けようとしているような絵を卑しいものと考えている。
そのために、今ある絵の否定から始まっているので、自分の眼だけを頼りに絵を描こうとした。だからずいぶん遠回りをしたし、成果も少なかった。やり方自体は間違っていなかったのだが、そうしたやり方は天才だけに許された方法だったのだろう。才能がそれほどはないのだから、
ただただ、遠回りして、やっと出発地点あたりまで来たというのが現状である。だから、ここからがいよいよ自分の絵と対峙する時が来たのだと思える。長くやってこれたことには感謝している。そうでなければ訳も分からないところで途切れていた。
こうしてここまで来てみると、絵がどういうものであるかわからない以上、手探りで描こうとすると、空間というものの困難さに直面した。いわゆる、前景、中景、遠景みたいな絵の見方である。絵というものの、仕組みからはいれば、その処理法のようなものがあるのだろう。
ところが、自分の絵画法で、空間を捉えるということはできなかった。この空間を捉えるということが、最も絵画で重要なことなのに、できないので避けたのだ。避けて絵できるところを見つけて歩いた結果、平面的に見える場所を描いたのだ。それが俯瞰的な場所だったのだ。真上から見れば、地面は平面である。
その平面に見えるということと、俯瞰的な風景という関係が、自分の子供のころに見た藤垈から見た甲府盆地だった。やはり絵画で一番重要なことは、この空間の意識だということに気付く。空間を把握するということは自己存在の位置を確認するということになる。空間の意識は一人一人違う。
空間つまり世界のことだ。絵画が自分の世界観を表現するものであるとすれば、世界をどうとらえているかの重要な意識は空間意識であろう。空間をどのように感じて把握しているかを、自分の意識で明確にするのが絵画するということかもしれない。
だから、私は人の絵から出発はできなかったのだ。人の世界観で絵を描く気にはなれなかったのだ。その結果の要領の悪い、遠回りをしてきた。それでよかった。私の今の絵画の空間に他人のものは紛れ込んでいない。だから見栄えはしないが、それがいいと思っている。
私の世界観が、乏しいものであるために絵画が貧しいものであることはやむ得ないことだ。自分にないものを描いて居るよりはずっといいと思っている。自分を磨いてゆく以外にない。つまらない奴が、そこそこましな絵を描いて居るなどというのは、人の何かを借りてくるのがうまいだけだ。
自分が精進して、少しはましになったときに、絵もいくらか他人にも見せられるものになるはずだ。生きるということは、日々これ精進。どこまで行けたかの証が絵である。ここまでだということが分かる絵であればすごい。自分がましな人間になれるかどうかはわからないが、全力を尽くして、やってみる。
大した才能もない人間が、努力をしてどこまで行けるかである。これは正直な思いだ。まだ少なくとも10年はあると考えている。うまくすれば、20年である。日々の一枚である。日々の一枚を謙虚に、全力で描いてゆけば、どこかには行き着けるはずだ。そう信じてとぼとぼ進んでゆく。
評価を気にしない。成果の少ないことを嘆かない。さげすまれることを畏れない。自分に至る道なのだから、自分だけの問題なのだ。自分が納得すればいい。中学生のころ、この「納得」という言葉が理解できなかった。みんなに笑われた。
笑われたが、納得するということがどのような感じなのかが、どうしても感覚的に理解できなかった。理解するとか、了承するとか、わかるということと納得は違うと思った。腑に落ちて、受け入れることができる。に近い体験的な理解なのだ。理屈でわかったことでも納得できないことはある。
いわゆる絵が納得いかなかったのだ。どこかに自分の考えている絵はこういうものではないと思っていた。自分の感性だけを信じれば、誰でもそういうことになるのではないだろうか。結局のところ、子供のころからなんにでも反抗する性格が、ここに至ったのだろう。