株価の不自然さからおもうこと

株価の暴落しない不思議。日本の停滞ははっきりしているのだから、株価は値下がりするのが自然だ。日本に明るい見通しは極めて少ない。何時株価は下がり始めるのだろうかと思って居るのだが、意外に下がらない。その理由は他にお金の使い道が無いと言うことだろう。
政府が投資を奨励することがある。お金は使い動くことで経済に有効なものになる。銀行が有効な貸出先があれば、それでもいいことになるが、銀行には高い金利でお金を借りてくれる企業がない。それで貯金に利子が付かないと言うことになっている。銀行が出来ないのであれば、政府が貯金に偏ったお金を投資に引っ張り出そうと考えている。
株にお金を投資する背景には、自分というものに期待できないと言うことがある。お金があるなら自らに投資するのが一番と考えたほうがいい。どこかの知らない会社に投資するくらいなら、一番分かっている自分というものに投資すべきだと考えている。人生を少しでも良くするというのはそういうことではないか。
お金を自分に投資するとによって、新しい体験すると言うことになる。今のぼたん農園に投資している御陰で、石垣島での田んぼの体験が出来ている。その結果はお金が返ってくるわけではないが、素晴らしい体験を経験させてもらっている。この喜びは他に代えがたい物だ。
生きていると言うことはそういうことではないのだろうか。お金は死ぬときに使い切っているのが一番良い。平櫛田中は100歳になってから、大量の彫刻の材料の素材を購入したという。材料に不安がっては仕事は出来ない。投資というのはそういうことなのではないだろうか。自分に価値を見ることが出来れば、一番有効な投資先は自分である。
今の株価を見ると世の中の大半の人が、自分というものが投資するほどのものでないと自覚していると言うことになる。自分に投資したところで、たいした意味が無いとみている。お金が見返りはないと考えている。自分が暴落するかも知れないと考えているとしたら、それほどみじめなことはない。
ソフトバンクの孫さんは投資で大きな損失をしたらしい。なぜソフトバンクの事業に投資をしないのかが不思議だ。自分の会社より他所の会社の方が儲かるだろうと考えている。仕事自体にやりがいがあるのであれば、儲かる儲からない以前の問題ではないか。
そういう企業がどうも多いようだ。企業や政府がどこかの企業へ株式投資するというのは、どうもおかしい。政府が有効な公共事業を行えば、それが税金になり戻るのではないだろうか。江戸時代の新田開発はそういうことだった。政府がもっと有効な事業を行うことが出来れば、豊かな国が作れるのだ。
結果として株価は高止まり状態。この高止まり状態は実に危うい高止まりである。もし暴落すれば政府が一番大きな損益を生む。政府は仕方がないから、大量な資金で買い支えしている。政府が着いているから大丈夫だというので、危うい高止まりを承知で、株式投資を続ける。
しかしどこまで行ったとしても、必ず自転車操業は疲れて止まらざる得ない時が来る。ここらが精一杯なのではないだろうか。政府の奨励策に乗せられて、株式投資を今から始めるなどと言うことは、かなりまずいことにしか見えない。
自分を信じてこれからやって行こうという人は、自分の仕事に全力を費やすために、すべてのお金を自分の会社に投資するはずだ。金儲け自体が目的化している。仕事よりも金儲けなのだ。それで上手く利益を上げれば評価される世の中がおかしい。
拝金主義者。守銭奴。倫理無き資本主義。それが今風の生き方と言うことらしい。金色夜叉ではないが、お金では買えないものがある。自分の日々の体験という充実である。投資に熱中して成功するというようなことには、人間をだめにしてゆくだけだ。
人間が生きると言うことの充実は日々刻々の行為にある。今日一日をどれだけ充実して生きるのかがすべてだ。お金があるのであれば、その一日のやることにすべてを投資するのが最善だと考えている。自分というものがすべてである。それが生きるといことだろう。
そう思って生きている。お金を借りるというのも嫌いだ。利息分を生み出さなければならないということを考えたくない。お金生み出す能力がないとおもっている。農業をやってきたとはいえない。業という言葉に相応しいことをやれたのかと思う。
幸いなことにお金に困ったことはない。父親の御陰と言うことが一番であるが、お金を残してくれたという意味ではなく、早くから自立を要求してくれたと言うことがある。好きなことで生きると言うことは自分の手で生活してゆくことだとした。
大学に行く以上後は自分の力で自活しなさいと言うことだった。何しろ家で食事するなら、食費を出しなさいと言う考えの家だった。高校生の頃から自分で作って食べる家だった。その御陰で、自活能力が高まった。厳しい親と言うより有り難い親だと思っていた。
恥ずかしながら、小学校から高校まで家庭教師の先生に見てもらっていた。親が見てやれないから、そうすると言うことだった。それで大学に行けば後は自活しろと言うことだった。年1万円の学費だった国立大学しか行けないと考えた。今より良い時代だったので、自活できたのだろう。
フランスに行くお金も自分で作ることが出来た。世界のどこに行っても何とか暮らせる自信が生まれた。親の御陰でお金の使い方も稼ぎ方も理解できた。それは不労所得ほどよくないものはないと言うことだ。自分の力で生きると言うことを最優先に考える。
日本が不労所得を奨励するような倫理のない国になってしまったことが情けない。お金持ちが偉いというような間違った国になったことが悲しい。清貧と言う言葉が死語になった。清貧とは貧しくとも、心が豊かであり、むしろすがすがしいということだ。
バブル崩壊後中野孝次著の「清貧の思想」高い評価を受けた。日本の文化にある、心の豊かさを大切にする良寛のような生き方である。しかし、時代は引き返すことが出来ず、さらなる拝金主義の時代につき進んでしまった。お金にならない仕事には価値がないとする情けない時代にまで進んだ。
拝金主義は金持ちも貧乏人もすべての人に蔓延している。むしろお金のない人に拝金主義が浸透している。それは貧困層には仕方がない結果だ。人のことはともかく、清貧の思想を良寛禅師の生き方を学びたいと思う。托鉢に生きると言うことは、世の中にそれだけ返す生き方である。