絵を描く尽きない面白さ

毎日絵を描けることが喜びである。絵を描くことに生きる手応えがある。ありがたいことだ。一日を生きる意味を絵というものに見ることが出来る。絵という画面の世界が、それだけの価値があると思える。その理由はわからないが、実に面白い、おもしろいの一日である。
アトリエカーで描いている写真である。絵からすると小田原から戻り、小田原の絵を描いているときのことだ。ここに座って絵を描いている。小田原に越した頃から、何十年もそうしている。死ぬ時も、絵を描いていることが出来れば安心なことだろう。死ぬことにきっと気づかないで終わることだろう。
絵というものはそれほど尽きない面白さがある。描いていると新たな世界が開けてくる。自分が想像もしていなかった世界で生きることに向かい合うことが出来る。次の世界の中にいる。次の自分というものに向かい合うことが出来る。昨日までではない自分の世界が見えてくる。
描いた絵の価値というものはどうでも良くなっている。世間の評価から離れることが出来たとき、絵が自由になったことが良かった。画家になりたいと考えたときとは、ずいぶん絵を描く気持ちが変わった。描き終わった絵そのものよりも、描くという行為が大切なものになった。
千日回峰行の僧侶が2回目の回峰行を始める心境だろう。千日で修行は終わらなかったのだ。本当は死ぬまでの回峰行に生きていると言うこと。楽しく苦しい修行が続いている。つまり修行すること自体が目的化しているのではないか。私には絵を描くのはそういうものでありたい。出来ているとは言わないが。
只管打画である。描くことの意味を求道している。座禅が出来なかったから、描くと言うことが代替なのだ。そうでなければ進むことが出来なかった。そういう言い訳がなければ、進むことが出来なかった。ダメでも良いじゃんとてぇーげぇに生きてきた。
それでも絵は社会の中のものだとは思っている。社会に必要なものだし、人類が生きる上で重要なものだと思っている。描くことだけが重要だと言うことは、描かれた絵が、社会的なものでなくても良いというわけではない。描くことに全力を費やされた絵の姿が、社会に意味を持つと考えている。
当然私の絵もそうありたいと考えているわけだが、到底及ばない。しかし諦めたわけではなく、死ぬその日まで努力を続けて一歩でも近づきたいと考えている。それで私の生きると言うことはいいと思っている。出来ないからとやる前に諦めたくはない。どこまで行けるか只管打画である。
芸術としての絵画の意味は装飾としてや、美術品としての意味ではない。どこまでも人間の生きるということに関わるものだ。生きると言うことを突き詰める手段が、絵を描くと言うことである。その証の絵が、社会の中で生きると言うことを、突き詰めたいと考えた人につながるという意味である。
私というどうしようもない、テェーゲェーな人間が、テェーゲェーな絵を描くわけだから、それほど大それた絵ではないだろう。それでも日々、只管打画に向かう。絵に向かって努力している課程であれば、それでいいと思えるようになった。絵は只管打画修行の証。
自分が描いた絵だ。と言うことだけあれば、素晴らしいものでなくても良いと思うようになった。そもそも絵というものはアルタミラの壁画であろうが、モナリザであろうが、それぞれの評価であって、どれが素晴らしいというような客観的価値はない。貴金属や宝石のような宝物ではない。
求めているものは芸術としての絵画なのだろう。芸術としての判断の基準はある。説明ではない。装飾ではない。写生ではない。自分自身の心の創作物である。大上段に言ってみれば、自分の中の揺るがすことの出来ない、芸術の真実の部分が、画面にあるということだ。
そういう画面になるまで描くという基準が、絵というものにはがある。この感触は不思議なもので描いていると導いてくれるように立ち現れる。これでいいのかと考える自分もいるのだが、「良いんだよ、これで」と言う自分も現われる。自分を越えたような、ある感覚としか言い様もないものが判断している。
描いているとあるとき絵が立ち上がる。絵らしきものになり始める。どうしようもなかったものが、輝きだし強いものになる。そこに至るための方法論はない。ただ描き続けて、そこに行けることがたまにはあると言うだけだ。到達することがあるのだから、諦めることなく、また描き続けている。
見ている世界の写生、世界を描き止めると言うことが、一番危ういことになる。と考えている。世界はあまりに確かである。確かであるからそれを参考にして写せば、それが正しいことだと安心してしまう。所がそれではどこまで行っても自分の見ているにはならない。見ている現実は捨てなければ、自分の世界観には近づけない。
しかし、自分の世界観から絵に入れば、これまた頼りない根拠のない世界にさまようことになる。確かな目の前の現実を、自分という生きている眼が捉えた上で、自分の世界観で創作できるかである。その世界の奥深さと、無限と、真理を自分なりに解釈できるかである。
世界を肉眼で見ている現実に、絵が引き回されてはならない。絵はあくまで画面の上に描き出している世界である。私が見ているという現実世界は、材料なのだ。その材料の奥にある自分の世界観との共鳴のようなものを探っている。
言葉にはなかなかしがたいことなのだが、日々こんなことが頭の中をぐるぐるしている。そしてそれを一切忘れて、考えもしないで、画面に向かう。絵に従うだけである。そして、今も視野の先には絵が並んでいる。その並んでいる絵を見て、様々に感じている。

絵を見ながら絵のことを考えている。そしてブログに絵のことを書いている。なんともこの程度かと思うこともある。何かしら素晴らしいと思えることもある。結果を考えることはしない。描こうして並べてあるのは、何か気づくことがあるからだ。
4月25日から船堀タワーホールと言うところで、水彩人春期展がある。そこに出す絵はもう小田原の家に置いてある。睡蓮池の絵である。今描いている睡蓮池の絵の方がもう少し進んだ気はしている。毎日わずかだが進んでいる。それでいいと思う。