「空」と「無」と自己本来

   


 
 ひこばえの実証実験中の2番田んぼの「とよめき」良さそうではあるが、まだ不安は残している。

 古代インドで生まれた「空」の概念。 空、くうという概念は、内部が空であることを表しているのだろう。内部と言うことになれば、自己内部と言うことと考えても良い。自分の内部がどうなっているのかという事は、生きていればかなりの人が考えることになる。

 インドでは自己という物がいかなる物か非常に突き詰めて考えられていたようだ。自分という物を指す言葉も、自己の置かれた時空の状況で変化するという。いつも今の自己はどういう自己であるかということが意識されている。その自己の内部を空とする考え方。確かに興味深い。

 仏教は出来て数百年が経過した頃、中国に伝わることになる。中国ではインドで考えられた「空」が「無」という概念に成って行く。無はないと言うことで、内部が空であることとは少し違う。外枠である自己という物も存在そのものがないという考え方である。空と無は似て非なるものであるはずだ。

 胡蝶の夢である。自分という物はそもそも無いのではないかという考え方。夢の中で蝶としてとんでいた。目覚めてみればああ夢だったのかと気付く。待てよ、蝶である自分が、今人間である夢を見ているのではないか。こういう言う考え方が出来る中国人は魅力的だ。

 2400年以上にもおよぶ仏教の歴史をとおして、自己の内部の空白概念を考えるとき、とても解決しきれない問題がある。解き明かせないから空という言葉に込められた意味は変化し続けたのではないだろうか。中国で考えられた無という考え方は、老荘思想的から生まれた考え方だ。

 禅の考え方として、日本の禅では主流の自己の捉え方として学んだ。その一番明確な認識が道元禅師の正法眼蔵なのだろう。私には十分に読み込むことができないので明確ではないが、自己存在をあると考えて、それをどう超越するかが只管打坐のように考えてきた。多分違っているのだろう。
 
  以下引用であるが、現存する最古の仏典と考えられているものは『スッタニパータ』原始仏典。『スッタニパータ』の「第5 彼岸ひがんに至る道の章」におさめられている第1119偈げ(詩句)に、以下のようなことが書かれている。
 
 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。(『ブッダのことば』岩波書店、236頁)
 
「世界を空なりと観ぜよ」とは、自分などという物はないと言うことに通じている。そして、「世界が空なり」と認識することができれば、その人は生と死を明らかにしたことになり、「死を乗り超えることができる」と言う考え方になる。

 養老先生は、解剖学をやっていれば人間に自己存在などないと言うことは一目あきらかだと書かれている。物として人間を見て行けば、あらゆる人間という物体は変わらない。それを自己を独立させて、峻別することに大した意味はないという考え方。

 空という言葉も無という言葉も中国からの受け売りだったわけだが、考えてみれば中国でもインドからの受け売りだったわけだ。しかし、日本ではどうも空よりも無という方がしっくりしたのではないか。空は論理が通っているが、無はどちらかと言えば飛躍している。

 飛躍しているというか、詩的で情緒性が伴う。これは私だけの感覚かも知れないのだが。空は説明のようなものだから怖くない。無は絶対の世界の恐怖を伴う。死と無が結びつく。有るか無しかである。存在しないという感覚には慣れることはない。

 私は今ここに在る。そういう意識が普通だ。そんなものはないに決まっていると養老先生も言うし、道元禅師も言う。果たしてないと考えることが大切なことなのだろうか。自己存在にこだわり続けているような生き方を、ダメな生き方とは考えていない。

 何とかもう少し自分の何たるかを把握して、進みたいと日々生きている。それが絵を描くということになっている。絵を生み出すものとしての自己存在の確認をしていることになる。だからよい絵を描くということは重要ではなく、自己の独自性のようなものを探っているような気がする。

 それを邪魔しているのが、よい絵というようなことになる。昨日日動画廊で素晴らしい絵を見た。梅原龍三郎のカンヌの夕焼けの絵だった。自然体の絵だった。何かを表現してやろうといういうのではなく、梅原の自己内部がこの絵を描いたということを感じた。

 作ろうとか表現しようとか言うものがない、にもかかわらず、むしろそれだからこそ、強く梅原がそこにある。なぜこういう絵に至ったのか。日本の絵画の崇高なものがあった時代。今がいかに残念な時代になったものかと、その橋のほうにいる一人としてふがいなく思った。

 本当の絵を見ることは必要なことだ。確かに自己が表現された絵というものはある。あることが実感できる。ただし非常にまれだ。日動画廊には50点を超える絵があったのだが、そ
のほか一枚もなかった。多分その50点は日本の代表的な人の絵なのだろう。実は中川一政のものもあったがそれさえダメだった。

 絵を見る目がおかしくなっているのかもしれないが、一枚だけでもすごい絵を見ることができて、方向が間違っているわけではないということだけは確認できた。おかしくなっているにしろ自分の目で進むほかない。ますます方角が違うのかもしれないが、自分を確認するところまで行きたい。

 
 

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