BLOGOSがあと二ヶ月で終わる

   



 ブログスガ始まったときにブログスへ期待する、個人の持つ発信力につて書いた。そのブログスがあと二ヶ月で終わる。期待には応えてくれたのかというと、ブログスという塊で、社会に良い影響が生まれたことはほとんど無かった。新聞に変わるような世論形成の立場の確立は出来なかった。

 ブログを毎日書く。願掛けである。これを書いている間は大丈夫だとの願いがある。それもあり一日たりとも休めなくなっている。これは内々のことでどうでも良いことであるが。ブログにもそれぞれの目的があるのだろうが、ブログスのようにメディア化しようという試みはだめだったわけだ。

 ブログスは時々読ませて貰ったので、少し残念な気持ちもある。内田樹氏のことを知ったのはブログスだった。そうした読み応えある記事はしばらく前から消えていた。そんなこともあって滅多に読まなくなっていた。久しぶりに行ってみたら、終了のお知らせが出ていた。

 何でもネットサフィンする私が読まなくなったぐらいだから、ほとんど人がクリックしなくなったのだろう。ブログは根無し草のようなものだから、その塊である、ブログスは浮島である。一時島に見えていても、その日が来れば川の流れに漂い、流され始めて姿を消す。

 川の流れとはお金の流れである。お金を燃料としているから、お金の燃料が切れれば、縁の切れ目。経済というものは冷酷なものである。またその客観性という正しさも秘めている。だから主観的な私はお金が嫌いだ。確かにブログスなど無くても良いという世間の結論が出た。

 どうでも言いブログを願掛けとはいえ、なぜ続けているのかと思う。読んで下さる人がいるからである。これは間違いが無い。ブログスでは何百万人の動きで栄枯盛衰があるのだろうが、私の場合は一人でも読んでくれるのであれば充分張り合いがある。

 特に日曜展示を始めてからは、ブログが絵の発表の方法になった。1000人前後の人が見てくれている。実際の絵ではないから、違うものであるとは思うが、それなりには伝わっている。その昔の日本では不鮮明な白黒写真で、モネやゴッホが語られていたのだ。それだって伝わるものはあったのだ。映像で見る方が案外本当のところが見えると言うことすらある。

 見て貰うと言うことは絵を描くと言うことに必要なことだと思っている。絵の世間的な評価と言うことはまったくどうでも良くなったが。絵が表現である以上何らかの表現手段は持つ必要がある。ブログで発表すると言うことで、絵は自分のものでなくなるというような感覚である。

 私絵画の意味を考えたときに、より発表すると言うことが重要になると考えている。自分を探る為の絵画の方法であるから、世間と断絶してしまいがちである。世間と関係なく絵を描き続けることは出来る。それでは自分を深めることがおかしくなると考えている。

 座禅をやるにしても一人でやってはならないと、師の山本素峰先生に言われた。独善になるというのだ。自給自足生活も同じだ。一人の自給が可能になったならば、みんなの自給に向かわなければならない。人間は一るわけではなるわけではない。

 人との交流が絶たれると、おかしな方向に進み出すものだ。プーチンでは無いが、独善が過ぎると狂気に走る。絵の会の偉い先生など、だいたいがプーチンである。あなたの絵は絵ではないですよと、教えて上げる人がいなくなる。絵でもないものが奉られて狂気にいたる。

 できうる限り、絵は公開すべきものだと考えている。絵は役立つものではないから、独善でも一向に分からない。これが建具であれば歪んで使い物にならなければすぐ分かるのだが、作品というのは始末が悪いもので、使えない花瓶でもごもっともとなる。

 絵は黙って一人で描いていればそれでいいと言えば良い。私の場合はそれをブログで公開することでいくらか、世間に窓を開いた気分になる。風通しがいくらか良くなる。自分の中で、毎日1枚は描くと決めるとしても、そのことをブログで公表することで継続が可能になる。

 人間は日々変化をする。ある意味毎日生まれ変わっている。昨日の自分と今日の自分は継続しているようで、違う人でもある。毎日決意しなければ、その日の自分を生きることが出来ない。その意味で習慣というものが大きな作用をする。

 行いを日々の習慣にする。例えば毎日新聞を読む。毎日テレビを見る。こういうことでその人は出来てゆく。禅宗の僧侶が毎日座禅をするのはそういうことだ。座禅をすることで僧侶としての自分が維持されて行く。毎日私でいるためには毎日行うものが必要なのだ。

 朝はブログを書くことから始まる。そして動禅体操を行う。それからご飯を食べて、のぼたん農園に向かう。そして絵を描く。農作業をする。弁当を食べる。また絵を描く。農作業をする。そして、家に帰って酒を飲んで寝る。そのの自分は死んで、翌日生まれるの繰返しである。

 つまり日々のこの暮らしが私なのだ。それ以上でも以下でも無い。その私を公開しておくことは重要だと思っている。だから顔写真も名前も、年齢も身長も体重も、体組成計の数値も、住所もメール
アドレスも、おおよそのことは公開して生きている。それで不都合だったことは無い。
 
 ブログを書き出してから、ますますそういう生き方になったわけだ。それが良かったと思っている。絵を描いて生きるうえではそれが良かったと思っている。これは死ぬまでと言うか、ボケてブログが書けなくなるまでは続けようと思っている。そうだ惚け防止の役目も書くことはしてくれる。

 ただもう一つある。誰一人アクセスしてくれる人がいなくなれば、その時も終わりである。つまり独善に至ったのだ。その時にはブログを書く意味も無くなる。そういう日が来ないように生きて行かなければならないのだろう。

 ブログスと同じように終わりにならないようにしなければならない。ブログを続けるのはお金は特にかからない。こう言ったら、電気代がかかるだろうと言われたことがある。確かにそうだが、1円にもならないはずだ。インターネットを続けることにはお金がかかるが、ブログを書く書かないとは又別である。

 ともかく生きている内は書くつもりである。日曜展示も続けるつもりである。また発表した文章も、作品も使用自由である。版権など無い。画廊に出す絵はブログには掲載していない。間違って買う人がいても困るからだ。

 

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