水彩画の描画の過程
今の描いている水彩画の制作過程を記録してみた。この日は描いている間に何度も絵を撮影した。この日どんな風に進めていたのかは、後々参考になるかもしれない。
この日は薄曇りで、ときに雨も降った。風も吹いたり全くの無風になった時間もあった。薄日の差した時間もあった。
描いた紙はファブリアーノの厚紙、紙目は細かいもの。大きさは中判全紙。場所は名蔵湾沿いの田んぼの奥。赤い屋根の家は獅子の森という別荘地の屋根である。位置も箱の場所を上から見て描いていたところである。
空の写っている水の様子。地面も見える。雲も見える。対岸の木々も写る。写真ではなかなか分からない。
2020年12月27日。8時30分から11時30分である。ここで一日目終わる。
12月29日8時30分から10時 アトリエで見ていたものを進める。これ以上描くのかどうかはまだ分からない。
良くもこんなに記録したものである。どう描いているのかが参考になって良かった。何をやっているのかは後では全く分からなくなる。描く手順もいつもバラバラである。こんな空の描き方をしたのはたぶん初めてのことだ。
学生時代に美術部で一緒に絵を描いていた坪田さんがいつも言っていたのは、絵はどの段階でも完成しているはずだという言葉だった。この言葉は今も頭に残っている。描いているときにいつも魅力のある状態のまま進んでいって欲しいとは思っている。
絵を描くと言うことはすべての段階で芸術的な行為でなければならない。坪田さんは当時から現代美術に関心があった。デッサンをするときに、最初に一本の線を引いた時にも美しく出来上がっていなければ成ら無いと言ってそういうデッサンをしていた。
その言葉は今でも時々思い出す。絵を描く行為といものはそういう物で無ければならないと確かに思う。そうなるかどうかは別であるが、私絵画の究極の姿はそうなるはずだ。見ている自分が必要と思うことを描いていれば、画面は自分にとってどの段階でも見ているものであるはずだ。
絵を描くことに作業のような無意味な段階が、あるはずが無い。そういうことの無い描き方になるはずである。どの段階もその時必要な行為を行い進んで行く。どこで止めても良いはずである。
しかし、絵を完成すると言うことはある調和点まで進まないわけに行かない。見えている何かに、より近づこうとしている。そのためには一度描いたものを、乗り越えて行かなければならない。このあたりはまだよく分かっていない。だから、どこが絵の終わりなのかはいつも分からない。
まだ乗り越えるものがあると言う状態は、終わっていないと言うことだろう。この時に修整すると言うことはだめだ。一度描いたものは意味があってそう描かれたのだ。それを変えるのは必要なことではあるが、最初こう描いたが、さらに見えてきた何かからすれば、こう描き直さなければならない。出来上がった絵ではそうした過程のすべてが見えていた方が良い。
水彩画はそういう描法が可能な材料だ。最初に引いた線も探すことが出来る。
その描いた過程こそ、描きながら見えてきた世界観である。描くという行為の意味はそのような場所にある。偶然できた絵づらに引きづられて絵を作って行くことはしない。あくまで見えている対象との問題である。対象がどう見えてくるかで絵面は動いて行くことはある。
絵面の面白さで絵を進めるということは良いことではない。これが絵であるという観念で描いていると言うことになる。絵などどこにもない。頭の中にも無い。絵は見えている世界をどう見るかだけだ。そこにだけ向かえば良い。そこに何も無いとしても、それは自分に見えている物がないと言うことであり、仕方がない帰結だ。
ないものをあるがごとく描くことは無意味なだけでは無く、自分を毒して行く。絵をでっち上げても空しいばかりである。ダメでもいいという覚悟で、自分の観ている世界に向かうことだ。そのむなしいかもしれないことに、どれほど向かい合えるかだけだろう。その深さが、浅いとしてもその人であり、その人の絵だと思う。