楽観と悲観は大きくは違わない。

   

 母は天気予報を見ると、必ず雨だと言った。日本のどこかに降る雨を自分の所に降る雨だと考えているような気がしていた。テレビの天気予報を見るたびに雨が降る雨が降ると心配していた。ぼけていたわけでも無い。案外その不安が的中することが良くあった。
 もちろん天気予報だけではない。何かやろうとすると、心配事から始まった。その反発心からか、天気予報では雨でも、雨は降らないと思うようになった。日本のどこかの晴れを見つけて、今日は晴れると思っていたのかもしれない。然しそれで雨に降られることが良くあった。
 そのうちに、都合良く雨が降ると雨が降って良かった。晴れると晴れて良かったな、と思うようになった。雨が降ると風景の色は深まる。雨が降って困るのは外で絵を描こうとするからであって、屋根の下で絵を描くのであれば、むしろ雨は絵を描くには最適なのだ。アトリエカーで絵を描くようになった。
 雨だと景色の中の見なくて良いものが見えなくなることがままある。すべてが見えると言うことは、絵を描く上で余り大事では無い。見えると言うことは、すべてがくっきり見えると言うことでは無いのは当たり前のことだ。見たいものがよく見えることだ。見たいもの以外が見えない状況は甚だ都合が良いと言うことになる。雨の日は絵を描くには好天気と言うことになる。
 5日には久しぶりに小雨のなか、篠窪で絵を描いた。大木になっている柿が見事に実っている。霧の中から時々浮かび上がってくる。見えないから見えるものがある。これが却って心の中の景色を作り出してくれる。10日ぶりの絵は何か描けたような充実があった。
 それじゃ晴れたら困るかと言えば、晴れたらそれはそれで良いに決まっている。風景が光を反射して光っている。元気いっぱいに絵が描けるという者である。明るい気分で絵を描くというのもいいものだ。晴れの日ほど絵描き日和である。そう考えれば、どのような天気であっても絵を描くことには良い天気である。
 都合良く楽観している。その日その日を受け入れて良い方に解釈をしている。ではどこまでも楽観で居られるかと言えば、そうでもない。自分の絵のことを考えるとさすがに、悲観的にならざる得ない。今の絵が今の自分であるとすれば、その程度の自分と言うことは情けない。これは悲観的と言うより、残念なことである。
 才能が不足していると言えば良いのか、努力が足りないと言えば良いのかは分からないが、要するに絵と言い切るためには、不十分なものだ。絵が自分だという私絵画の考えだから、自分という者の不十分を認めざる得ないことになる。これでは悲観にならざる得ない。
 コロナ感染が広がり、世の先行きを悲観する人が増えている。当然のことである。しかし、コロナなど何でもない吹き飛ばしてしまえ、と威勢よく経済優先を主張する人がいる。楽観過ぎて脳天気と言わざる得ない。コロナが広がれば、否が応でも経済は衰退する。この余りに当たり前のことが見えない人がいて、世の中を混乱させる。
 

 - 水彩画