石垣島にアカショウビンがやってきた。
崎枝のアカショウビンがやってくる写生場所。アカショウビンを昨日も今日も来てくれた。タブレットであわててとったので、どこにいるかもわかりにくい。ガラス越しでしかも写真機が悪い。ガラスを開ければ逃げて行く。車を止めている場所から5メートルほどの枝に止まっていた。大きな赤いくちばしが印象的である。
今日も同じ場所に来て、又飛んでいった。飛び方がまるで空の中をゆっくりと泳いでいるかのように緩やかに、優雅に大気の中をすり抜けていった。時間が止まる。毎日この場所に来ると言うことは木を整理する前はアカショウビンのすみかだったのかもしれないと少し心配になった。
悪いことをしたかもしれない。調べてみると太い木のうろのような所に巣を作るらしい。片付けた太い木はなかったので巣を壊したようなことはないのでほっとした。明日も又来てくれるといいな。この赤い色の鮮やかさは別格に見える。飛び立つと火が噴いたようだ。
絵を描いている真上にあるのが、タコノキである。タコノキは6メートルほどある。丸いアダンの実と同じようなものがぶる下がっている。中々面白い姿で見事だ。タコノキの根は繊維質で根を叩いてほぐし、縄になって利用していたそうだ。崎枝の方がそのやり方を教えてくれた。
タコノキの実はゆでて食べることが出来るそうだ。完熟するといくらか甘くなると記載がある。楽しみだ。雄花の木と雌花の木がある。確かにどの木にも実があると言うことでもない。小笠原島の固有種と言うことだから、石垣島には移入されたものと言うことになるのだろうか。そう言われてみると、植えられたような場所以外では見たことはない。
クバの木もそうなのだが、与那国島ではクバの原生林がある。何故か、石垣では探したのだが、野生のクバと思われる木はまだ見たことがない。昔は山に木馬があったのだろうか。ヤエヤマヤシは山に生えている。与那国ではヤエヤマヤシは余り見なかった。島ごとに少し植生が違うのだろうか。
赤く実ると見事なものなので、赤くなったら絵を描いてみようかと思う。ちょっと楽しみである。枝にぶら下がったところの方が描くにはいいか。葉の方はいろいろタコノキの葉の民芸品があるようだ。葉も根も、実もどれも役立つとは面白い木だ。
アダンと似ているが同種の木である。タコノキ科のアダンと言うことなのだろう。防風林にはアダンが多いい。庭園木や観葉植物として、小笠原タコノキが使われるようだ。
写生場所から田んぼが良く見えるように下の牧場の木を切らして貰った。牧場の方はもと農業高校の先生で、とても良い方だ。あっちも切る方がすばらしいよ。こっちも切ってあげなさいよ。言ってくれるのだが、すこしづつやらして貰うつもりだ。
どうも木が生えていることで困ってもいたと言う風にも言われる。これは私に気を遣ってのことのようだ。本当に心優しい方だ。昨日は牛の世話にご夫婦で見えて、お土産にパイナップルをいただいてしまった。こんなに親切にして貰うのでは。
絵を描くお布施だとすれば、よほどいい絵を描かなければ申し訳が立たない。私の絵ではどこを描いたか分からないようなものなので、きっと納得はして貰えないだろう。ここが残念なことだが、これはどうにもならない。
この田んぼを「トウマタダー」と言うのではないかと思うのだが、違うのだろうか。松の木がある田んぼと言う意味だとお話を聞いたのだが、松の木も確かにある。もう2カ所崎枝には松の木のある田んぼはあるので、どの田んぼのことだかはまだ判断は出来ない。
どの田んぼも実に古い時代の田んぼの姿を彷彿とさせている。上部に湧き水の水源にある。そこから、複雑に水が広げられている。その水が行き尽くす所までが田んぼである。水をうまく回すために複雑な形が出来上がったのかと思う。またとないほど見事な形の畦である。
2日間描いたのだが、木を切る合間に描いたので、余り時間はかかっていない。色が黄色く写ってしまった。髪はファブリアーノのロール紙である。紙目がスムースである。海に浮んだように見えるのが、竹富島である。沖縄にはニラカナイと言う思想がある。ニラカナイ天国のように竹富島が見える。
大分イネが育ってきたので、その面白い畦は大分見えなくなってきた。今は何とか緑になった田んぼを描いてみようとしている。初めてのことだ。難しすぎて今まで避けてきたことだ。やらなければいつまで経っても進めないので、出来ないと思いながら描いている。
その意味では絵を描く意識が変わったのだろう。田んぼをいつも描いているのだから、絵になるのは田植え前後だという意識を捨てた方がいいと考えるようになった。別段絵になろうがなるまいがかまわないという気になっている。絵になるというような考えは捨てたい。
自分の見ているものに正直に向かってみることが重要ではないかと思っている。描く前から、絵になると言う判断はひとまず置いておく。緑で覆われ始めた田んぼも素晴らしいもののはずだ。緑一色であるから、描きにくいという意識は絵というものの先入観かもしれない。
田んぼというものを描いて行くためには、緑の海になったときだって描くことだろう。実りの秋にも描くことだろう。自分のやりやすい得意に当てはめるというのではダメだろう。この場所であらゆる季節に描いてみたい。四季それぞれであろう。田んぼというもの全体を描くことだ。
この写真では田んぼの向こうには丘があり、山に続いている。しかし絵では丘の向こうに海を描いている。海はこの右側には広がっている。広がった海が余りに見事なので、いつも描いている。