書は下手の方がおもしろい。
どなたが書いたのかわからないが、なかなかいい字だと思う。石の字に点があるのは異体字ということだが、隷書ではこういう字を使うことはあるらしいが、市民会館にこの字を使うということは、このような書き方が、石垣にはそもそもあったということなのだろうか。そんな誤解をしかねないが。
時々字を書きたくなる。あまり意味はないのだが、書は独特の面白さがある。一つには字を書くというときの緊張がいい。手織りの大島の布に書いた。こんな贅沢なことはめったにできないだろう。さすがに字の調子の美しいこと限りない。2つ目は言葉という具体的な意味である。先日竣工記念の集まりに大勢の方が石垣の家に来てくれた。そして私の絵を見て何が描いてあるのかということで盛り上がった。私の絵は単純に石垣の風景画である。皆さんには全くそう見えないらしい。遠慮のない人はこんなところは石垣にはない。わかるように描いてもらいたいということだった。そうなんだろうなと思う。全くその通りである。私の絵には写実的な説明要素はないから、訳が分からないというのが本音であろう。描いた場所は皆さん知っているところである。バンナ公園から海の方を見て、などと説明してもあそこはこんなところではないということらしい。わかりにくいと言っても抽象画という訳でもない。どこかの風景らしいとは見えるのでなんとも困るらしい。感情を爆発させているような表現主義的ものでもない。のどかとか気が休まるというようなこともまるでない。どう見ても収まりようがないということらしい。
おなじ壁に字が掛けてある。これは読める。読めるけれどあまり上手いというものでもない。書は下手な方が個性が表れる。読んでみて何を意味するのかということになる。「石垣春風」「水土人天」何を意味するのか。ということになる。なにか宗教的な意味とか、哲学的なもの、あるいは教訓的なもの。そんなことを説明してもらいたいということらしいので困った。石垣春風は石垣に来て感じたそのままの自分の心の中である。これもなんとも納得は行かないらしい。石垣の人には石垣の風は春風のような甘いものではないと言う。そういう実際の風ことではないのだが致し方ない。水土人天はすべてということである。宇宙という気持ちである。全部と書いてもいいのだが。左右対称文字ということで書く。どうもこの中の水に反応した。水は石垣では海だというのだ。言わないのだけれど、土人はないだろうと暗に批判していた。意味というものは怖い。水と、土と、人と、天。という風に書けばわかりやすいということなのだろうか。最近の書はそういう分かりやすいのがはやりではある。あれはさすがにいやだなぁー。
多くの人は文字となると教訓が好きなようだ。相田みつを氏とか、その後継者なのか、真似なのか。そういう文字を時々見るようになった。「にんげんだもの」というような書だ。昔で言えば武者小路実篤氏の、「なか良きことは美しきかな。」というようなやつがあった。何でもいいわけで、「転んだら、起きればいい」という具合だ。漢詩の一節のような文字では鯱張っているので、日常語で、「月がきれいですね。」というようなまだろっこしいことを書く。臭いところがあると嫌味と感じてしまう。臭くもなく、意味もなく。「正しい納税」は驚くべき税務署で見た書展で、須田剋太氏の「撃突」の書よりインパクトがあった。さすがにこれは書く気になれない。言葉は意味あるから面白いとはいえるが、意味あるから怖い。石垣には書道塾が結構ある。気が付いただけで、5か所ぐらいある。そこには通りに向けて字が掲げられている。大体はまじめに明朝体のような上手すぎる書だ。上手は書の外。下手は書の内。
書は書く気分が良い。この点絵とはだいぶ違う。絵を描いて居て気分が良いということはない。どちらかと言えば、絵は無我夢中になる。書は初めからわたくし書だ。分かってもらおうというような意味は全くない。絵も書もわかりにくいものである。わかってもらえないということは、つくづく思い知っているので、それはいいのだが。なんで描きたいのか。この先を見たいという思い。見えかかっているような自分まで進んで、確かに描きとどめたい。あと少しという感じがあるので、後を引く。全くできていないのであれば、あきらめもつくが、ここでやめるわけにはいかない。田んぼで言えば、種まきが終わったあたりか。苗床の準備はした。良い種は準備したということか。書はは無意味が一番であるが、正しい納税はさすがに嫌だ。しばらく前に、「でん田楽団」と書いた。年に一度くらい「でん田楽団」と書いてみようかと思っている。なんかえばって唄っているようでいい。そういえば私の唄はがなりである。八重山では話している其のままで唄えと言われている。本島に、よい唄はそうなのだ。歌になるとつい朗々と唄ってしまう自分が恥ずかしい。