沖縄で県民投票実施へ

   

沖縄で県民投票が全県で実施されることになった。民主主義がかろうじて戻ってきた。この揺れと、戻りは、悪いだけではなかったと思う。住民投票の問題が、県民の間の、分断から対話へのきっかけになったのではないか。沖縄の若い人たちの思いが通じたという事だろう。何故、石垣市民として、意志表明さえ許されないのか耐えがたい思いであった。一体、市町村の権限として、県民としての権利を損なう事が許されるとは思えない。自分の考えと違う市民に対して、その意志の表明すら許さないというのであれば、民主主義というものは腐ってゆくであろう。こうした沖縄の分断は政府が作り出したものだ。辺野古の海に米軍基地建設を無理やり押し付けているとしか思えない。日本の安全保障に必要だから、沖縄に犠牲になってくれという考えであろう。少なくとも、沖縄の人々がどのように受け止めているかという事ぐらい表明させてもらいたい。それを材料として政治を行うのが、民主主義であろう。現在、政府は権力を持って、沖縄県民の意思を無視した形で、辺野古の海を埋め立てている。工事を強行する姿が、トランプアメリカに従う意思表明だからだ。また同時に、本気で中国が攻めてくると思い込んでいるのだろう。

先日、東京で子供のころからの友人と飲んだ。「沖縄に行って大丈夫か。」というのだ。「中国が攻撃してきたらどうするんだ。」とまじめな顔で忠告してくれた。「そうなんだよ。沖縄に米軍基地や自衛隊基地を集中させるので、沖縄の安全は脅かされているんだよ。」と話したら、「何言ってんだ基地を早く作らなければ危険だ。」こう言いだした。基地があれば、中国は攻めてこないだろうというのだ。そうか、沖縄が危険だから沖縄に基地を作らなければならないと、普通に考える人もこうしている訳だ。親切心で辺野古の米軍基地を作らなければ沖縄の安全保障はないと考えている人がいる。そのことを正面から言われたことはなかったので、唖然としながら、軍事基地と安全という事はどういう事か考えている。その友人に、住んでいる近くに基地がある方が安心か聞いてみた。「安心に決まっているよ。」それなら「基地のそばに越したらいいだろう。」と忠告した。警察署のそばに住んでいれば、泥棒も少ないという感覚かなと思う。私は基地のそばの方が危険だと思うのだが。泥棒と核ミサイルとは違う。

中国が怖いという感覚は結構広がっているらしい。それは、中国が覇権主義で軍事大国化しているという現実から来ているのだろう。その中国も中国の軍隊は中国の安全保障のためのもので、外国を攻撃するためのものではないとしている。中国の13億人の国力に見合う軍隊という事だから、まだ不足しているというのだ。中国の軍隊は中国内部を統制するためのものと考えた方がいい。中国は不安定な経済成長を続けている。大きな変化を続けている。しかも、国家優先の国家資本主義というような強引な国づくりである。国内の反発を抑え込んで行くには軍隊が必要ということであろう。言論の自由も制限されている。もちろんその強引な国づくりは近隣諸国に対しても威圧的なものであろう。覇権主義と言われても仕方がないように、周辺諸国に対しても軍事力で当たっている。国内が不安になればなるほど、外国に対して強硬な姿勢を見せることになる。

そうした国際情勢の中で、日本の安全保障はどこにあるか。差し迫ったものとして考えておくのは戦争は、経済戦争である。武力を使う前に経済的な戦争になる。それに伴いサイバー戦争があるのだろう。ロシアも、中国もトランプアメリカと対立して、経済的に脅かされている。現状の先進国間では軍事力で強引に攻めてくる可能性は極めて低くなっている。それは軍事力の変化である。北朝鮮が核弾道ミサイル保持したことで、無視されなくなった。日本安全保障がどこにあるかを、実践的に考えてみるべきだ。まずは、食糧と情報の確立が安全保障だと思う。それは災害時と同じだ。軍事力が意味がないとは考えない。軍事力で言えば専守防衛の徹底である。ミサイル攻撃を防ぐ方法をどこまで高められるか。移動可能な迎撃ミサイルであろう。固定基地であればそれこそ先制攻撃の対象になる。もし日本を攻撃するならミサイル基地からとなるだろうから。しかし、どの方法も完全なものはない。結局のところ仲良くなることだ。互いが相手を必要とする関係になれば、戦争などに訴える可能性は下がる。沖縄の民意が示されたとしても、辺野古の埋め立ては続くだろう。しかし、沖縄の意思に反しての行為という事は、より鮮明になる。そのことが次の選挙で反映するはずだ。

 

 

 

 - Peace Cafe