教育勅語好きの文科大臣

   

自民党の議員には教育勅語好きが多数存在する。またもや柴山昌彦新文部大臣が就任の記者会見で、教育勅語愛を語った。教育勅語を唱えることが、たぶん文科大臣への就任の義務要件なのだろう。別段父母に対する孝行の徳育を考えるのであれば、教育勅語を持ち出す必要など全くない。親孝行は道徳教育に入れたいと言えば済むことである。それを回りくどく、いまさらのように教育勅語を持ち出さずにはいられない理由はあるのだ。何しろ教育勅語というのは今から120年も昔、明治天皇の勅語として示されたものだ。古いからいけないとも言えないが、これは明治帝国主義に基づいた思想だ。この勅語が日本人を戦争に駆り立てたのだ。似たようなものに、軍人勅諭というものもある。さすがにこちらを持ち出すのは自民党議員でもはばかれるようだ。これも遠からず、防衛大臣就任の踏み絵になる時代が来ると思わなければならない。

教育勅語は文科大臣の踏み絵なのだ。過去には、下村博文、稲田朋美も記者会見で教育勅語の大切さを主張した。誰かへのシグナルというか、誓いの言葉なのだ。明治帝国主義の鵺。亡霊。姿なき圧力がある。たぶん人や政治集団ではない。宗教でもない。何かそれぞれの心の中にある、よりどころに住み着いた亡霊なのではないかと最近思うようになってきた。嫌な政治状況だ。何故、拝金主義と帝国主義が結びつくのか。帝国主義というのは、自分さえ良ければという一国主義の変形なのだ。19世紀であれば、軍事力の競争になるのだろう。強ければ、偉いというような野蛮な根性である。これが21世紀では経済力の競争になっている。金持ちが偉いという嫌らしいゲス根性である。こうした嫌な人間の姿が露骨になっている。この経済競争に駆り立てるための教育勅語なのだ。国家というものが一丸になって、競争に勝ち抜こうという方角を示したいのだ。経済競争に乗らない自分とは違う人間を非国民と言いたいのだ。外国人肉体労働者の受入までして、競争に勝たねばならなぬという、資本主義の限界である。

国家主義というものを考え違いしている。国家の一番重要なものは文化である。日本人というものの文化である。文化を失えば、国家など何の意味もない。では日本人の文化とは何か。「おもてなし」「もったいない」というのはまさに日本の文化的資質の表れであろう。日本人にはそのように暮らしてきた歴史があり、育まれた文化がある。私には稲作から培われた特性であると考えられる。稲作と天皇家とのかかわりという事もある。60年前の子供のころには、一粒のお米を大切にしないと、罰が当たると常々言われたものだ。父の家は稲作など縁のない家であったが、お米の大切さを繰り返し言われた。子供にはお米が特別なものだという事はいつの間にか沁み込んだ。付け焼刃の教育勅語どころではない、日本人になる歴史的な家庭教育がこういうところにあった。今子供たちはお米を食べなくなっている。味がないからだそうだ。お米の味わいが分からないのでバターライスにする時代。日本人が変わろうとしているという事だろう。こちらの方が深刻なことなのだ。

この新しい時代に、日本の方角をどのように示すかが政治家の役割である。果たして教育勅語であろうか。馬鹿も休み休み言え。政治家であるなら、前向きの発想が出来なければダメだ。誰かの顔色をうかがう場合ではない。学校教育に作業の時間が必要だ。というようなことは言うべきではないだろうか。文科大臣ならば頭だけ人間になるのは良くないぐらい言えないのか。人間が生きるという根本を抑えるのが教育である。このままでは未来は有能な人間だけの世界になる。0,1%の有能な人間の為に大半が無駄な教育を受けているのが現実である。普通の人間の為の教育。これが文科省の目指すべきものだ。作務の時間を設ける必要がある。身体を動かし、何かを行う。英語など生涯使う必要もない人間にまで、小学校の正課にする必要はない。必要な人間が駅前留学すればいいのだ。体育と家庭科を併せて、その分を作務の時間にする。当然農作業も行う。そこからやらなければ日本人はダメになる。

 

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