石垣の川

   

夏の川  石垣島宮良川

石垣島宮良川。上流を見ている。

いつも描く川である。9月のみどりの勢いがすごい。その中を竜のように流れる。同じ場所を描くのだが、何度見ても初めて見るような気がする。自然と人間のかかわり方のようなものが、川の姿に表れている。この自然を耕作するということは怖かっただろう。採取生活から、農耕が生まれるということは大変なことだっただろう。ましてこの川の水を利用した、稲作が誕生するとなると、人間が生きる暮らしというものの意味がこの姿に表れている。その思いを含めて、宮良川を眺めている。宮良川の上流部にはダムがある。山麓にはいくつものダムが作られている。ダムがあるということで、石垣の農業は発展した。水に困るということがない島。お隣の宮古島は平らな島だ。川らしい川がない。風景がまるで違う。人の気質も随分と違う。言葉も違う。見ればわかると言われるほど違う。石垣の風景と宮古の風景の違いは、明らかだ。人の違いは見ればわかると言われても、この違いを写真には取れないだろう。絵はこういう不思議に見えているものを、描いてみようということになる。石垣には石垣の緑がある。この緑をかいてみたい。

下流方向である。あの丘の向こうはサンゴ礁の海だ。その付近が日本人の最初の人骨が多数発見されている。アフリカからここまだはるばるやってきた人類。これほど暮らしやすい場所はなかったのだろうと思う。こちらには田んぼが広がる。古い時代から田んぼはあったに違いない。3000年続いている田んぼかもしれない。石垣にはよその島から出づくりされていた田んぼ後まである。この農業遺構は貴重な存在だと思う。川沿いの踏み分け道が実によい。何万年も人間が歩いた。それが道になった。そんなことまで想像させる道である。どこかで川に降りる道もあったはずだ。踏み分け道が見えるだけで、川が流れるという自然の営みに、寄り添う人間の暮らしが見てくる。石垣が世界中の観光客から評価される理由は、この太古からの人間の暮らしと、現代人の暮らしが融合しているからではないだろうか。私はそう思っている。

 

 

黄色で反応している。川に移る空の色。反射して光る強い輝き。そして水の濁り。雨が降るとこんな色にすぐなる。海までこの水が流出している。サンゴにはよくないことだろうと思う。黄色で描いているのは、緑があまりに強いいからだと思う。この先どう言うことになるのかは少しもわからない。この絵の写真は一日描いて終わったところだ。少しも気に入らない。それでも、向こうにある自然の勢いには負けていない。そこは良かったかもしれない。明るくなったらすぐに描きに行くつもりだ。石垣では朝か夕方が描きやすい。光が真上にあるから、影がなくなるのだ。影がないと物の形が見えない。色だけのことになる。形の確認だけはしたい。朝2時間ほどが一番景色が見やすい。石垣は明るくなるのが、小田原より1時間30分は遅い。これがいつも待ち遠しい時間になる。たぶん、サマータイムが一年中あるということだろう。サマータイムになると人間夜更かしになるようだ。

石垣島の人の多さはすごい。町が若い人であふれている。那覇の国際通りに来たようだ。人がたくさんいるということは、良い空気があふれる。いつも借りるレンタカー屋さんによると、すごい借り手の数で車が足りないと言われていた。選挙の看板が残っている。市議会選の中間派の4人は実は自衛隊基地賛成派だったようだ。公明党の平和主義は終わったようだ。中山市長は自衛隊基地推進を決めたようだ。選択がせっかくの石垣の観光による明るい未来をダメにしないだろうか。中国と友好関係を結ぶことが、石垣市としても行うべき手段だ。中山市長は自ら平和的市民の努力の先頭に立つべきだ。武力で対抗しよう、相手の中国に問題があるのだから。こうした安倍政権の選択に乗せられてしまえば、石垣の観光の未来は危うくなるのではないか。観光産業に武力での対抗は邪魔なだけのはずだ。石垣の平和な暮らしはどこまでも平和外交にあるのだろう。

 

 

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