万引き家族のその後
是枝監督の万引き家族が好評だそうだ。良い映画が多くの人に見てもらえるというのはうれしいことだ。楢山節考も姥捨ての話だった。外国の審査員に浮けたのもなるほどと思わせる映画だった。今回は現代社会の捨てられた人々の話だ。人間が生きる社会というもののなかに、棄民されたように存在する家族というものの話だ。共通の日本人の生きるの在り方が、主題になっているのだと思う。人間は一人一人生きている。生まれてきて死ぬ。すべての人間が同じ運命の下に生きている。生まれたという事は必ず両親というものがいる。その血縁というものは重いものであり、自分の生きるに大きな影響を与えている。それぞれにある家族の問題。家族のお陰で今生きていると思う。それでいいと家族が指し示してくれたから、社会という大きな不安の中にあっても、少し安心して自分を探して生きている事が出来る。絵を描いて生きている事が出来る。何処に行くのかという不安の舟に乗り込んで漕ぎ出すことができる。
万引き家族が評判になって、こんな日本の恥部を世界に晒してという、批判が出てきているそうだ。そういう批判はきちっと見てから発言しているのだろうか。あらすじを読んで批判することだけは止してもらいたい。さらに是枝監督が文部省からの招待を断ったというので、批判が出て来ているそうだ。私が一番気になった批判は、どこかの市会議員の批判だった。政府から補助金をもらって映画を作ったくせに、政府の招待を断るとは何事かという批判である。こんな言い草を放つ、議員がいる日本国である。政府の補助金が政府の都合だけで左右されるべきだという、体制翼賛的な反応である。忖度しろと言う圧力である。年々人々の視野が狭くなる。国の弱まりの露出なのである。心の余裕がなくなってきたという事だろう。政府を忖度する者だけが評価されればよいというのであれば、まさに独裁国家である。アベ政権の望むところのソフト独裁政権である。いつの間にか独裁になっているという麻生理論が現実化している。こうした提灯持ちの市会議員が登場する時代。
教育の無償化と公明党の看板には書かれている。多分、無償にしてやるのだから、政府の批判などしない人間に成れという事を意味しているのだろう。ただより怖いものはないという奴だ。教育の無償化の前提として、教育の独立、自由の確立が必要となる。国の為になる人間を育てるための無償化では、最悪の方角だ。公明党の無償化は、忖度できる人間を作る無償化を目指すことにならないか。国際競争力のある人間を育てるためなら、無償化にしてあげる。これでは教育はだめなのだ。政府を批判することのできる人間も無償化する。現代の日本社会をえぐり出す、こういうドキュメント的映画こそ日本という社会の品格を保っている。未来への希望である。批判する者も批判されるものも互いに自由に議論し合えるような自由が必要なのだ。社会批判をするような映画に補助金を出すのは税金の無駄遣いだというような考え方が社会を衰退させる。社会が良くなるためには自由な社会批判が必要なのだ。
万引き家族は家族ではない。血縁という足元がない。足元に闇が広がる家族。漂流し吹き寄せられた疑似家族。家族という安全弁が疑似家族という暗闇の深さ。だからこそ見え隠れする人間の生きる。日本の社会の疎外。楢山節考にある社会の掟の問題。掟の理不尽さと家族の人間らしい絆。血縁的家族の崩壊。社会に疎外が起きるという事は、自分の立ち位置が無くなる。家族というよりどころを見失う疎外。安心な帰る場所がない社会になった。一人の人間が生きるという問題が漂う。何処から来て、何処に行くのか。たどり着く場所はどこなのか。もう一度見てみたい映画だ。現代の寓話のような映画だった。余りに、複雑なものが絡み付き合い、映画の映像という実に頼りのない中でこその実在を感じるような、抜き差しならぬ重たいぬめりのあ存在感が生まれる。すごい映画だ。