私絵画を語らせてもらった
水彩人小品展で絵を語らせてもらった。詩人が朗読する会をやるようなことに近い。昨日は、2時から3人でそれぞれの絵のことを紹介した。これは観客サービスという趣旨でやって欲しいという事だった。できるだけ楽しんでもらえるようにしゃべったつもりだったが。こういうことを毎日やる展覧会もめったにないだろう。私は水彩人の紹介を含めて話させてもらった。4時からは絵を語る会として30分ほど自分を表現させてもらった。一つの実験という事のつもりだった。自分なりに語り尽くそうと思い、思い切って語ってみた。そういう絵画の表現の仕方はないのだろうかと思っていたからだ。言い過ぎぐらいに語ってみた。語るという事も含めて表現という意味を考えてみたかった。終わって見て、言葉にするという事は、とてもつらいことだという事が分かった。言わなきゃよかったという後悔のようなものが少し湧いてくる。絵を描くのは楽しいのだが、絵を見てもらうという事はまた別で辛いことだ。まして恥の上塗りのようなことをすれば後悔するのは当然のことであろう。
絵を描きだすことが一番好きだ。絵を展開しているのも楽しい。苦しいくなるのは描いている絵を完成しようと思う時だ。絵は発表して初めて完成したことになる。ゴッホは価値ある人間になりたいという人だと思う。価値ある人間とは、他人に役立つことのできる人間である。社会に価値のあるものを生み出す人間である。新しい医療技術を発見するようなことは、具体的に役立つことが出来る人間である。そう考えて、ゴッホは美術館にあるような立派な絵を描けば、ひと様の為になると考え努力をした。ところが自分が良いと考える絵を、誰も評価をしてくれない。そして絶望してしまう。私の場合も回りの人が評価をしてくれないという点では、ゴッホとおなじであるが。確かにその点ゴッホと同じで絶望的な気分になったこともあった。社会に役立つ立派な絵を描くという事が、絵を描く喜びとはあまりに違っている。楽しいから描くという事と、役立つという事とはどうも違う。
そこで考えるようになったのは、絵画が終わっている為に起きていることだった。絵画というものが芸術として社会の役に立つという時代は終わったという事だった。こう考えれば、自分の絵画が評価されないのも無理もないと考えることができる。絵画が美術品として、装飾品として社会の役に立つという事は現代社会でもある。世界の首脳会談が開かれる会場に飾られている絵などそうだろう。あれを見ると、その国の美術的レベルが見えてしまう。巧みなだけの絵。大きいだけの絵。大体の場合ロクな絵が飾られていることがない。事大主義が臭うからだ。例えば、梅原龍三郎氏の絵が飾られていたら、お!やるなと思うだろう。野間仁根氏でも良い。一見上手くはない、子供の描いたように見える絵だからだ。間違えかもしれない。下手な絵だと、世界中から見られるかもしれない。そんな絵を堂々と総理大臣の背景に置く見識がなかなか持てない。それで平山郁夫氏辺りが無難という事になる。ラッセンのイルカの絵がトランプの後ろにあったら、そうだろうなと見えるのかもしれない。
絵画というものが変質してしまった。こうした社会状況の中で絵を描いている。それでも絵を描きたいという気持ちが沸き上がるからだ。描くことは歓びではある。自分の生涯を費やすという事である以上、異なる価値観の中で絵の存在意義を見つけるほかない。立派な絵を目指すのではなく、自分の問題として絵を考えるという事になった。自分に見えている世界を絵にするという事だ。その絵が立派ではないとしても、自分の見ている世界に近づいていれば、良しという事になる。この自分が見ているというのは、赤ちゃんからお年寄りまで、回りを見ている。誰もが見ている。それを絵を描く目で見るという事はどういう事になるのだろうか。自分の世界観を通してみるという事。見たいように見るという事。風景になるという事。自分の存在を確認するという事。見るという事を通して、自分という人間を確認しようとしている。