水彩人小品展で気づいたこと

   

70歳になったら、石垣島に越す。そして残りの時間を絵を描くことに費やすつもりでいる。歳をとったら町のなかで暮らした方がいいと父は話していた。私が山北に越すと言ったとき、いくら説得しても、山北に一緒に行くとは言わなかった。そしていよいよ、山北の家に引っ越しをする寸前に死んでしまった。山北の家が出来たのは見ても来るとは言わなかった。それでも出来たらば山北に来るのではないかと思って、そういう家を作っていたのだが、残念だった。母は山の中の暮らしが好きだった。生まれたのが寺尾という山梨の境川の山中の集落だった。それで山の中の暮らしは私より、ずっと慣れていた。山北での13年の開墾生活は母に助けられた面が大きいい。畑も母はとても好きだった。草取りなどよくやってくれた。母も山北の13年を楽しんでくれたと思う。私が石垣に越したくなるのも、山梨の山中で生まれたからだと思う。子供の頃目に焼き付いた景色というものは決定的なもののようだ。

小田原は母がかかっていた小田原市立病院に遠くないという事で決めた場所だった。私は山北と小田原を行き来して暮らしていた。今度も石垣と小田原を行き来して暮らすつもりでいる。今度石垣に越すのは、小田原の今の場所では車がなければ暮らせないという事が一番大きな要因である。小田原より石垣島の方が便利な暮らしがある。ちょっと不思議だけれどそういう事なのだ。小田原でも郊外の暮らしは車がないとなかなか難しくなる。私はまだ車に乗れるのだが、うちの奥さんは車がかなり無理になった。バスがあるから暮らせないという事もないのだが、今の場所での暮らしが不自由になっているのは現実である。そんなこともあり、石垣の家が出来たらすぐにでも行きたいという事になっている。私はどこまで行き来できるのかという事が課題だ。家がなくとも石垣に通って絵を描いているのだから、同じと言えば同じだが。

私は石垣で絵が描けるという事がうれしい。それだけでいいという気持ちになる。絵を描くという事が全てであっていいと思っている。今回水彩人の丸善展の絵を見て、私の絵の描き方の自覚がある程度できた。東京の高層ビルの中の立派な場所に置かれた自分の絵の存在感のようなものを、自分なりに確認できた。自分の絵を掘り進めるだけでいいという事が確認できた。それは今の舞台装置の様な東京という真っただ中で、水彩人の仲間と絵を並べてみて、なるほど自分というものがくっきり見えた。私絵画という意味を確認できた。水彩画を描く人には3通りあるようだ。水彩画スタイルに沿って描く人たち。水彩画の基準のような存在であろう。現代の水彩画を代表すると位置づけられる人たちだ。生きている経済の中でも評価されている人たちといえる。そしてもう一つが絵画様式派のような人たち。自分が良しとする、あるいは評価できる絵画というものの形をそ摸索して、その絵画観に沿って自分の絵の完成を求めるという人たちだ。このやり方は水彩画というより、大多数の絵を描く人がやっている方法なのだろう。このやり方の場合、いわゆる絵画が失われる中難しいところにいると言える。そして、第3グループとして少数派ではあるが、私絵画の人がいる。

水彩人小品展では20号までの絵が展示されている。水彩という材料はこのくらいのサイズまでのものだという事が良く分かる展覧会になっている。大きさで隠れていた本音のようなものが表れる。このサイズまでの絵であれば、水彩人は相当の力のある団体だと思う。それ添えれの絵が付き詰められている。絵が見やすい。大きさというもので、隠れていたものが立現れている。それぞれの本音のようなものが、肉声のようなものが伝わる。小さなサイズであると、タッチの意味が鮮明になる。風呂屋さんの看板絵ほど大きくなると、筆触で表そうとする様な細やかなものは無意味化してしまう。自己確認絵画である、私絵画は大きい必要がないようだ。世間に見せるという事が必要になる時に、画面は大きくなる。会場芸術と言われるようなものだろう。今回は良い経験をさせてもらった。展覧会を準備してくれたすべてに感謝をしている。今日は絵を語る会がある。自分にとって色彩というものがどういうものかを、語って見ようと思っている。

 

 

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