生前整理計画
だんだん片付けが進んでいる。今のところ、捨ててしまって困ったものは一つもない。昨年は荷物を半減することができた。今年はさらに半減する。そして来年はさらに半減する。そこまで行けばやっと整理がついたというぐらいに減るだろう。3年連続で半減する予定。すでに去年でごみのような荷物が半分になった。今年で4分の1になる。そして来年には目標の1割まで減ってゆく。今年は、軽トラ20台分を廃棄しなければならない。実は正月から、どんどん捨てている。すでに8台分を捨てた。ごみ屋敷がやや普通の家になってきた。あと今年のノルマは12台分である。今年半減できるかが勝負である。そこまで行けば、来年の半減も希望が出てくる。70歳までには始末がつくように頑張る。生前葬があるなら生前整理と、自分で考えで作った言葉のつもりだった。ところが、すでに生前整理普及協会というものまである。そして「認定指導員」「作業技能士」の育成も行うとある。自分でやれるうちに気が付いてよかった。
生前葬というものは、これからの生き方を改めるために行うのだろう。生前葬の後どう生きるのかがなければ、自分の葬式を自分で行う意味はない。私はずいぶん昔に文芸春秋画廊で最後の個展を行った。絵描きとしての生前葬個展である。そう表明して最後の個展を行った。そしてその後は「私絵画」を目指している。絵描きを目指した自分にあきらめのけじめを最後の個展でつけた。生前整理は、これからの生き方を定めるために行っている。残りの生き方を煮詰めたものにするために余分なものをそぎ落とそうという事だ。あと30年絵を描こうと考えている。中川一政氏をめざし、100歳を目指して描くつもりだ。その為に、生前整理を行っている。自分が持っているものが自分の残りの30年を縛っては困る。物で安心することを出来ないようにする。石垣で絵を描いて居てそういう事に気づいた。石垣では何も持ち物がない。ホテルに暮らす。絵を描くにはこれで十分だという事を知った。
持ち物を整理する意味はこれから描く絵の方角を定めるという事だ。先日捨てるくらいなら、絵をみんなに配ったらどうかと言われてびっくりした。人にあげられるようなものなら、捨てはしない。人に見られたくもないものだから、捨てている。明日生きるために捨てる。これを断捨離とか名づけたらしいが、それとも微妙に違う。最後は軽自動車一つではなかろうか。家とか残った絵とかはどう処理をつけるかは決めてある。残したまま死んでも処理がつくようにした。軽自動車があれば、アトリエに十分だ。ここで寝ることもできる。ブログも書ける。そうか後はコンテナを借りて倉庫にすればいいのか。あと半減、半減の2年荷物が減れば、コンテナに入る。目標はコンテナ一つに入るだけの荷物と考えることにしよう。街でよくコンテナ倉庫というのを見かける。石垣にもあった。1か月5000円くらいのようだ。
命が消えた時にすべてが消える状態というものに覚悟が何とか出来始めた。この覚悟を作るために物を捨てているわけだ。この覚悟がなくて絵を描いていては衰退すると考えている。絵を描くという行為だけに意味を見て行く。絵を描いて居る時の心境は、楽しい訳でもない。充実感がある訳でもない。考えている訳でもない。眼になり、道具になっている。絵を描くものになっているような感じだ。それが良いという事でもないのだが、現状そうなっていること。それは生きるという事を反芻しているような気がする。ある時奇跡のような成功もある。取り返しのつかない失敗もある。この道具である人間の磨き型であろう。絵を描いて居るとき、今ブログを書いているような意味で、頭を使い考えてはいない。無念無想とかいう訳でもない。何かぶつぶつつぶやいているような状態である。この状態をさらに純粋なものにするために、物というものを捨てるのもありかなと思って捨て始めている。