冬の下田に絵を描きにゆく

   

冬の下田に絵を描きにきた。今回は下田には泊まらないで、今井浜に泊まることになった。今井浜に泊まりたいという事でもなかったのだが、宿泊の都合でこういうことになった。今井浜東急とかいうところに泊まることになった。今も海の砕ける音がしている。下田まで通えばいいと考えている。下田にある庭の畑を描きたいと考えてきた。下田の庭の畑を見て描くのだが、家の畑を描いていることでもある。実際に目の前にあるのはよその家の庭にある畑である。ところが描いているうちに自分の家の畑のダイコンやら、ネギやらを描いている。この関係はなんなのだろうと思う。描きたい場所を描いているだけなのだ。畑は小田原にもあるし、似たようなところもある。しかし、下田のその家の前に行かないと、絵を描きたい思いが具体化されない。その庭の前に立ち、ただ写すことから始める。何か自分の意図があるわけではないのだが、自分の絵を描く気持ちが自由に動き出す。そして、気づくと違う思いの場所にいて描いている。

写生で絵を描くということはどういうことなのだろうか。その場所に向かって、ただ写しているのだが、その場所を描いているのでもないという不思議な感覚がある。絵を描くということは、画面という世界の中を、自分の脳の中の世界が同時に漂っていることである。眼前の花なら花を描いてはいるのだが、その描こうとする線は、花という文字であるかもしれない。あるいは、黄色い点一つかもしれない。いつの間にか花は消えて、家になるかもしれない。それはその場所を写してはいるのだが、自分の眼で見たものが、頭の中の画面に現れ、それを実際の画面に同一させてゆく。その自分の眼というフィルターの色が、偏光が、新しい画面という独立した世界への入り口にある。いつの間にか、眼前の畑の庭は、単なる色の漂う、空想世界と変わらないことになる。立ち戻れば、庭の畑はある。空想に漂えば、眼前の庭も、自宅の畑も同じ位置にある。いつの間にか、庭の畑はどこの畑でなくともよいことになる。自分の絵としての庭の畑に代わる。目の前の畑はただの参考としての庭である。

冬に入ると下田に来たくなるのは、小田原に色が乏しくなるということがある。あざやかな色にひかれて、南の下田まで来る。下田では今頃玉ねぎの植え付けをしている。色には人の心を触発する何かがある。色彩と自分につながっているものはなんなのだろう。自分の脳髄にある美意識に強く刺激がある。色彩というものの意味はよくわからない。色に特別のことがあるわけではない。色に刺激されるものが自分の中に生活をする過程で形成されている。おいしそう、食べられそう。そういう感じの先に美しいがあるようだ。自分の生きてきた感覚の積み重なりのようなものだろう。花の色、草の色、そして土の色。土の色という土台に、草や花がちりばめられる。この関係は色彩として美しい調和として育つのだが、それは生命の輝きのようなものとかかわっている。草の緑の濃さに植物の健康さを感じる。花の色に実りの予感。大地というものから湧き上がる力をそこに見る。その不思議のようなものが色彩にこもってくる。

下田の絵はその庭ですべては始まった。いつの間にかその庭のことを離れている。自分の中の世界を色濃く反映を始める。下田の庭の畑が、自分の世界への入り口であることがわかる。アリスが開くドアは、自分という無限世界への扉。開く扉のカギは、下田でなければならない。自分のどことつながったのだろう。やはり、下田まで来なければ、庭の畑に入る扉はない。下田の須崎の丘の上には、100坪から200坪くらいの自家用の畑がある。岬の崖の上なのに土がずいぶんよくなっている。長い間作られてきた畑であることがわかる。自分が食べるものが作られる畑であるから、多様ということになる。この畑としては小さな庭のような畑が、実によく作られている。家庭菜園という感じでもない。漁師の畑なのだろうか。民宿用の畑なのだろうか。花なども作られている。暮らしの中で必要とされ作られる多様な姿は暮らしの畑。

 

 - 水彩画