小農の使命
農文協の出している季刊誌に「地域」というものがある。なかなか骨のある雑誌なのだが、26号は「小農の使命」という特集である。小農に使命をつけた為に言葉に力が出ている。自給農とか自給的農業ではなく、小農と使うところが、なかなか思想を感じさせる。自分にはどんな使命があるのかと考えて読んだ。私が使う、地場・旬・自給の自給農という言葉は、農水省の使う自給的農業という位置づけとは違うものだ。言葉は似ているが、その趣旨は相当に違う。自給的農家というのは官僚によって仕方なく付けられた枠組みである。農水省の対象とする正式農家は販売農家である。あるというよりそうであった。ところが、販売農家が減少が著しい。そこで自給用野菜ぐらいしか作らない農家も、農水省の枠の中に位置づけようと、自給的農業という矛盾した言葉で枠を作ったのだ。官僚の知恵である。自給的農業は内容的には環境省あるいは厚生省、国土交通省、あるいは地方創生の枠のものだ。
自給的農業というのは産業的には存在しないおかしな言い方である。作ることは作るが、販売しないのだから、業としては存在しないものである。しかし、数的には一番多いいのが自給的農家になってしまった。これを外してしまえば、農水省が成り立たない。どれほど小さくとも江戸時代であれば、農業を行う事が産業であった。上納の稲作に於いてはその仕組みは徹底され、自分がお米を食べれないでも年貢を納めるしかなかった。純粋な自給農は産業ではない。産業ではないが日本の国土、文化、地方社会を守る重要な役割を担っている。それを使命というのだろう。集落というものを考えた時、大半の人が勤め人になった部落でも、一部の農業を継続する人は部落にとって貴重な人材になっている。農業が全く無くなれば、地域そのものが消滅する。税金の取れる住宅地であれば、行政の手も及んでいるが、中山間地の部落で農業が無くなれば、忽ち地域が成立しなくなる。
「小農の使命」といえば、地域の維持である。農業の人は大小を問わず、村祭りの準備となれば草刈機持参で参加する。水路掃除、川掃除でも、老人が大半を占める中で、軽トラックを準備して、作業の中心を担っているのが農業をやっている人だろう。部落の作業は農業者でなければこなせないような仕事が多いいものだ。地域の維持にはなくてはならない存在が小農である。ところが農水省としてはこの自給的農家というものを、今後の農業の展望に入れられない。生産物がないのだから、産業としての展望もない。産業でないものは、お金を生み出さないものは軽視されるのが今の日本社会である。消滅の危機にある中山間地の村に、そして離島に新しく来る若者と言えば、自給的新規就農者である。この新規就農者の存在が地方社会を維持、再生できるかに影響してくるに違いない。村も新しくならざる得ないだろうし、新規就農者にもそれだけの地域貢献が期待され使命にある。たぶんそういう自覚はないだろうが。その自覚を持った時に新規就農者は社会的な力を持つことになる。
ただ、私としては小農という言葉は少し嫌いだ。小さいながらも農業者であり、営農者であるという誇りを含んでいるのだろう。大規模農業もさらに私は嫌いだが、日本の食糧生産の役割が大規模農業に高まるのは現実である。大規模機械化農業と対立する枠組みとして、「小農」より「自給農」の方が意味も明確でふさわしいと考えている。使命などと大上段に言われたら、新規就農者は尻込みしてしまう。自給農とは基本は自分の食べるものを生産する人のことだ。いわば趣味の農業者のことだ。あえて趣味だと言いたい。趣味だから、使命は負っていない。生産費が要らない。それでいて自力で国土を守っている結果になる。自給の食べ物であれば一日1時間の負担で作ることができる。あとは普通に働くことが可能な暮らしの体制である。将来の日本の農業では、大規模の農業企業と、自給農だけが残ることになる。