ギリシャ問題

   

ギリシャがIMFの借金を返せないということで、デフォルトに陥るということである。この件にはいろいろ疑わしいことがある。私にEU問題の知識があるわけではないが、私の常識感覚から言うと、アメリカのことや、ドイツやロシアのことがなぜか抜け落ちていることが、不思議な感触なのだ。国際的な経済の問題がギリシャが国家としてだらしがないというような、末梢的な問題にすり替えられている。ギリシャがだらしがないなどということは全くない。EUのような経済統合を行えば、こういうことは必ず起こることなのだ。日本で、県単位で経済を考えて、沖縄や北海道に独立採算で経営しろと言えば、必ず、経済格差が起きる。平等の競争だと言いながら、経済だけで考えれば、都会が有利になるに決まっている。努力が足りないとか、能力がない、などということではないのだ。もちろん国家には国家の伝統的文化というものがある。その上でのことだが。

ギリシャが借金国になるのは、ヨーロッパが通貨統合をやれば当たり前のことだ。通貨統合に伴い、全体の調整が必要なのに、各国の事情を抜きに、強者の論理が正義として、共通論理として通っている。ドイツが豊かになり、その他の国が、利益を吸い上げられるという結果は目に見えている。ドイツ人が優秀だからというだけのことではない。ドイツのやり方が、経済競争に向いているということがある。工業技術が経済価値に連動している。社会インフラも経済競争に向いたようにできている。ギリシャのように観光立国していれば、消費地であるが生産地にはなれない。台湾や香港が巨大な中国の中に経済で巻き込まれたときに、どうなるかと似ている。TPPを行えば、必ず世界企業が有利になる。一番はアメリカ出身企業であろう。その結果アメリカに利益は集中してゆく、日本発のグローバル企業にとっても有利な話であるから、良い結果が出るであろう。資本主義の欠点が大きく表れてくるはずだ。強者はより強者になり、弱者はより虐げられてゆく。

そして、共通の条件でやっているのだから、努力が足りないのだから仕方がない、もっと頑張ればいいのだと、結局のところ虐げられる存在として固定化されることになる。稲作農業のことで考えてみる。私の子供のころに田植え機というものが、山梨の山間の集落に来た。みんなで筵を引いて、弁当もちでお祭りのように見物に行った。まさか、手植えの自分たちが追いやられる機会だとはだれも考えなかった。だっちょもない機械じゃ、手植えのほうがナンボカ早いこんじゃん。などと感想を言っているうちに、手植え稲作はなくなった。それは合理化されたということなのだが、手植え稲作に伴う文化も同時に消えたのだ。確かに、ばかばかしいような辛い労働ではあるのだが、ここに日本人のできた根源の労働が凝縮されている。経済性では切り捨てられないものが、ここに潜んでいる。天皇家がいまだに手植え稲作をされ、神にささげているものがある。

経済合理性と、各国の文化は矛盾している。その時に文化のほうを切り捨てて進む道を、世界中が選択してきた。腹が空いては戦ができぬ。背に腹は代えられない。ということだろう。日本がその競争にそれなりに勝ち抜いている間には、その矛盾が表面化しなかったが、いよいよ、韓国に追い上げられ、中国には抜かれたとなると、経済競争に勝つことに価値観を置いて安心していた日本人も、立ち止まらざる得なくなっている。ギリシャが他人ごとではなくなっている。日本人が生きてゆく、価値観を見直さざる得なくなっているのではないか。たぶんギリシャ人の価値観、誇りも、ドイツに脅されてだいぶ痛んでいる。なにもドイツが立派だからではない。ドイツが有利な競争の土壌にいるだけだ。

 

 この文章は前に書いた文章である。

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